屋我地島のドン・キホーテ


第1章・ ハンセン病

喉切り3年、目8年だってさ。こんな所に強制的に連れてこられて、おまけに子供が生まれないようにパイプカットだとよ。俺たちが一体何をしたっていうんだ

 

「精神病棟の前を通ると、『典子ォー』って呼びながら泣いている女の声が聞こえるだろう? 子供を産んだ後、この病気が見つかってさ。うつるからって赤ん坊と引き離されて、無理にここに収容されたんだってさ。気も狂うよなぁ。乳がはる度に、あんな声出して子供を捜すのさ……可哀相に」

 

「どうしてこの病気だけがこんなに嫌われなくちゃあならないんだ。感染力は結核の200分の1だっていうのに……」 

 

「俺なんか名門の家に生まれたのに、この病気になった途端、家名を汚すからって山の中の小屋に捨てられたんだ。家族から見放されて死んでしまいたいと思ったんだけど、死のうとしても、うまく死ねない。そのうち腹が減ってたまらないんで里に下りてきて乞食をしていたら、ここに連れて来られたのさ」 

 

「まあ、そんなに気を落としなさんな。生きていれば何か良い事があるさ」

 

「あんたは師範学校出のインテリだから、本を読む楽しみがあっていいね。それにしても器用に舌読(*指先の感覚がないので、唇をあてて舌で点字を読む)するね。また良い詩歌が出来たらきかせておくれ。あんたの詩歌は、俺たちの心の叫びそのものだよ」 

 

ここはハンセン病療養所の一室である。

 

 ハンセン病は癩(らい)菌の感染によって起こる慢性の伝染病で、1873年にノルウェーの医師ハンセンが病原菌を発見したことからそう呼ばれるようになった。

 

 感染経路は主に皮膚と粘膜からで、傷から菌が入ると皮膚に発疹ができ、末梢神経がおかされ知覚異常が起き肥厚する。病型は4型あり、黄褐色の湿った発疹や、鈍い光沢のある結節が顔などに左右対称に現れ、脱毛が起こり、ひどくなると風貌が変わってしまう癩腫(らいしゅ)型、顔、四肢などに境界のはっきりした赤味をおびた皮疹ができ、発汗低下と知覚麻痺が起こる類結核型、そしてこの2型の中間型と、初期症状を呈する未定型がある。

 当時は、ハンセン病にかかると寿命は「喉切り3年、目8年」といわれていた。眼球内に菌が入ると盲目になる。その後、結節によって喉と気道が詰まってしまい、5年後には“喉切り”つまり気管切開をしなければならなくなり、筋肉、骨、内臓と次々に侵され、8年後には命を奪われるという。

 しかし感染力は非常に弱く、潜伏期は大人で3~15年ともいわれ、感染経路が分かりにくい上、子供の潜伏期は短い。そのため青少年や子供に発病者が多く、長い間遺伝病だと思われていた。

 

 いまでもブラジル、フィリピン、インド、ミャンマー、タイなどには見られるし、日本での新発生患者も数名はいるが、たとえ発病したとしても化学療法剤で簡単に治ってしまう、恐るるに足りない病気になった。だがスルホン剤のプロミン、ダプソンといった特効薬も抗生物質もなかった昔は、不治の病として恐れられていて、病人の出た家族は感染を恐れる隣人たちに天刑病と罵られ、村八分にされたり焼き討ちにされたりするため、一家心中も珍しくなく、病家の運命は、それはそれは悲惨なものであった。

 

 父は医学生のとき、ある寺の住職から修行僧たちに英語の講義をするように頼まれた。寺に通っているうちにハンセン病患者収容施設を作り、その救済に情熱を燃やしている住職の人柄に惚れ込んでしまった。父はそこで住職から仏教の教えを受け、僧籍を得た。そして医学部ではハンセン病に関する論文で学位を得て、この不治の病を日本からなくしてしまおうと固く決心をした。

 


第2章・愛楽園

 父が沖縄屋我地島のハンセン病国立療養所・愛楽園に園長として赴任したのは、昭和19年3月のことであった。

 時は太平洋戦争の真っ直中であったが、政府と軍はミッドウェーの海戦以来、転進とか玉砕という言葉をたくみに使って、敗戦色が濃くなった戦局を勝利のように見せかけ、国民に偽りの報道をし続けていた。

 

 日本の勝利を心から信じて疑わなかった父は赴任にあたり、呑気に母と8歳の兄、4歳の私、1歳の妹を引き連れて、鹿児島から沖縄行きの船に乗ろうと出向いて行った。

 ところが船会社に行ってびっくり仰天した。遺言書と、死亡した時の通知先を書けという。その上、出航の時間は秘密だから毎朝聞きに来いと言うのだ。

 父は、来る日も来る日も子供たちを連れて出航の時間を聞きに通い、船が出ないと分かると近くの映画館で時間を潰していた。戦時中だったので、映画は爆風の猛威に関することばかり。今日も欠航、明日も駄目と、毎日爆風の映画を見続けて、すっかり爆風の怖さが体の芯までしみこんでしまった5日目に、やっと出航となった。

 

 どうやら船に乗れても、潜水艦攻撃をかわす『のの字航法』で、時速はわずか6ノットという亀の這うような速さで進む。通りがかった奄美大島の名瀬湾入り口には、輸送船が赤い腹を出して何隻もひっくり返っている。父は戦場に近くなったことをいやが上にもさとらされ、こんなところに妻子を連れてきたことを後悔し始めていた。

 その上乗船者はみんな甲板に出て、潜水艦の潜望鏡を見つけたら直ちに知らせよとのことだったので、沈没したときの用心に全員ブイをつけ、非常食用に鰹節を持たされ、冷たい風のぴゅうぴゅう吹く甲板に立って夜を明かした。父にしがみついて、私も沖に見える白波をじっと凝視していると、

 

「急病人です。誰か、お医者さんはいませんかぁー」

 

と大声で叫ぶ船長の声がした。

 父は はじかれるように立つと、船長の後について行った。私も小走りに後を追い、そっと船室を覗くと、男の人がお腹をよじるようにして、脂汗を流している。父はなにやら患者さんと話しながら、手際良く応急処置をしている。そして次々と運ばれてくる病人の手当てに追われて、そのまま にわか船医になってしまった。

 そうこうするうちに、ゆっくりと用心深く進む船は、魚雷攻撃にも遭わず無事に沖縄に着いた。

 

 

 屋我地島は、細長い形をした沖縄本島の、真ん中に突き出た本部(もとぶ)半島に抱きかかえられているような周囲16.1キロメートルの小さな島である。

 森にはガジュマル、ソテツ、芭蕉など亜熱帯特有な植物が生い茂り、岩鳩、カワセミ、スズメ、ミミズク、千鳥など様々な小鳥がさざめいていた。島の周りには、満潮時には沈み、干潮時には現れる、小さな無人島が散らばっていた。透きとおった海にさしこむ太陽の陽射しは、波が揺れる度に海底にいる色鮮やかな魚や珊瑚や海藻にうねうねした白い縞模様をつけていた。海岸には砂のかわりに白い珊瑚のかけらが打ち上げられ、それに交じって、色とりどりの貝がらが無数に散らばっていた。

 

 海沿いの敷地5万坪の愛楽園は、防潮塀にぐるりと囲まれ、塀の中には事務所、医局室、治療室、重病舎、試験室と病院の建物が続く脇に、入園者が暮らす純日本風の切り妻造りの住宅、木造瓦葺きの平屋の病棟が何棟も整然と立ち並んでいた。その一つ一つには、ソテツ舎とかガジュマル舎、ユリ舎など優雅な名前がつけられていた。その他、生活に必要な売店、理髪所、洗濯場、炊事場とそろい、園のはずれには精神病棟、隔離病棟、監禁室があり、さらに離れたところには納骨堂や火葬場もあった。

 この病気の治療にあたる医師や看護婦さえも、世間からは敬遠されていたので、ほとんどの人が宗教という心のガードを持っていた。ここ沖縄の治療陣は、キリスト教徒が圧倒的に多かったので、園の真ん中には大きな礼拝堂があった。

 

 赴任第1日目、たった1人の仏教徒である父は早速その礼拝堂に座り、賛美歌に負けじと高らかにお経をあげて、皆をけむに巻いた。だが信じる宗教がなんであれ、目的は唯一つ、不幸にしてハンセン病にかかった人たちを救うことであった。

 

 門の外には職員宿舎があり、そこが私たち家族の住まいになった。

 向かい側には、ハンセン病を発病していない入園者の子供たちが収容されている保育所があって、すべり台を登り降りしている元気な声が澄んだ空にこだましていた。 

 

 

 到着した夜、愛楽園では父の歓迎会が行われた。父は体こそ小柄だったが、ギョロリとした射るような鋭い目と、歯に衣を着せずズケズケと話す大きな声は、おっとりとした気質の本島出身の職員たちを不安にさせた。

 宴たけなわになり、職員たちの隠し芸が披露された。お返しに歌を請われた父は、その席上、

『せめて沖縄だけでもハンセン病を撲滅させること』

を誓い、突然自分の喉の皮をつまんでふるわせ、

「ヒヒーン」

 と大きな声でいなないた。

 父は大変な音痴で歌が苦手だったので、歌を所望されると、いつもこの手で かわしていた。若い看護婦たちは、怖いのか面白いのか分からない新しい園長を、当惑したような顔でじっと見つめた。 

 

 

 南国の美しい澄んだ海は、私たち子供の素晴らしい遊び場だった。造礁サンゴがつくりだす海の色は、太陽を浴びてスカイブルー、ピーコックブルー、コバルトブルー、プルシャンブルーとさまざまなブルーに輝いていた。幼い私は、このきれいな海を、妹の世話におわれて家にいる母に見せてあげようと手にすくうと、いつもただの透明な色になってしまうのでがっかりしていた。

 干潮時には向こう側に見える小さな島に渡って遊んだ。満潮になると島は海に沈んで、子供は波にさらわれると言い聞かされていたので、いつも潮の満ち具合を気にしながら満潮になる前に急いで戻った。

 兄が取ってきてくれたウニを、浜辺で割った。おそろしげな針千本の堅い殻の中には、黄色いウニの卵巣が細長くはりつき、それを指ですくって食べると、海水の塩味がほんのりとまざって、身も心もとろけるような、まったりとした味が口中に広がった。

 女の子たちは浜辺に集まって、貝殻をお手玉がわりにして遊んだ。釣りもした。木の枝で作った竿に結びつけた糸を垂らすと、すぐに河豚が釣れた。河豚をつついて怒らすとプーッと膨れるので、つついては、兄と大きさを競って遊んだ。

  夕方になると、ソテツの葉を輪にしてつなげた首かざりを肩からかけて、お姫様になったつもりの私と、小振りの沖縄馬に乗って騎兵隊になったつもりの兄は、海岸で拾った綺麗な貝殻を戦利品にして、意気揚々と家に帰ってきたものだった。

 

 島の子供たちは、みんな裸足だった。……郷に入れば郷に従え……そのうち私たちも裸足で遊びまわるようになった。最初は柔らかかった足の裏も、毎日裸足で遊んでいるうちに分厚くなり、少々のものを踏んづけても大丈夫になった。しかし古釘を踏んだときだけは、内緒にしていても何時かばれて、母に追いかけ回されてヨードチンキをつけられた。

 

 雨が降ると小さな妹と家の中で、父が作ってくれた木製の汽車や、母の手作りの人形で遊んだ。子煩悩の父は、大工に頼んで小屋を作ってくれた。私はその小さなお城の中に野原でとってきた草を並べたり、貝殻を飾ったりして近所の友達をよんでままごとをして遊んだ。

 

 

 愛楽園の職員宿舎に入ってしばらく経った頃、

「ここは危険ですから学童疎開船が出るので、せめてお子さんたちだけでも安全なところに避難させたら」

と忠告が入った。

が母は

「離れ離れになって死ぬよりも、一家全滅というのも、かえって楽しいものですよ」

と譲らなかったし、

父も

「職員や、患者の子供をここに置いたまま、自分の子供だけ避難させるわけにはいかない」

  とその親切な申し出を断った。

 

 8月21日、護衛艦の宇治(うじ)、蓮(はす)に守られて、那覇港から対馬丸(つしままる)、暁空丸(ぎょうくうまる)、和浦丸(わうらまる)が5000人もの疎開者や学童を乗せて鹿児島に向かった。    

 夜10時過ぎ、悪石島を通りがかったとき、老朽化していてスピードの出ない対馬丸に魚雷が命中した。しかし後の2隻は無事だったので、護衛艦はそのまま鹿児島に行ってしまった。夜の海に投げ出された遭難者たちは翌日、鹿児島から来た船に助けられたが、1661名のうち、生存者はたったの177名しかいなかった。

 

 この話は極秘にされ、それを私たちが知ったのは、ずっと後のことであった。

  

第3章・ 大収容

 沖縄はどういう訳か分からないが、ハンセン病患者は本土の10倍といわれていた。検診によると、島内だけでも600人の在宅患者がいた。

 病気に罹(かか)った人たちは人の目を恐れ、犯罪人のようにあちこちに隠れたり、裏庭の小屋などに息をひそめて暮らしていた。その上、ハンセン病療養所に連れていかれると、注射で殺されると、まことしやかに言い伝えられていたので、病人を出した家の人は、患者をひたかくしに隠して、病気をますます悪化させていた。

 

 ある日、沖縄に駐屯していた日本軍の参謀宿舎に、隠れ住んでいたハンセン病患者が見つかった。そのため軍の要請で、患者は全部愛楽園に隔離収容されることになった。軍のハンセン病予防隊長の助けを借り、沖縄本島の大収容が行われた。数度の説得に応じない人には、半ば強制的な収容だった。

 

 愛楽園に入るということは、家族や知人から引き離され生涯隔離されるということだったし、デマを信じて注射で殺されるかもしれないという不安を持っていた人も多かった。そのため、乗せられた自動車の中で、悲しみのあまり服毒自殺を図る人が何人も出た。家族を引き裂く、耳を覆いたくなるような慟哭(どうこく)の中に身を埋めて、父はポケットの中に、毒物を吐かせるための催吐剤(さいとざい)をいつも携帯しなければならなかった。

 

 本来ならば、療養所に強制収容して患者の自由を奪う代わりに、国から衣食住が保障され、毎月何がしかの慰安金が出されることになっていたので、人目を忍んで不自由な生活をするより、療養所にいるほうがずっとましな生活ができた。しかし戦時下のため、どの程度患者の幸せが護られるか分からず、父の心は重かった。

 案の定、病院拡張のために獲得した本土からの予算はついに届かず、うやむやになってしまった。あちこち奔走した甲斐もなく、受け入れ態勢も整わないままの大収容だった。 

 一挙に1000人近くに膨れ上がった患者の食事は、燃料不足で製陶工場が休んだため食器不足で、しばらくの間2交替制となった。布団の綿は綿火薬の材料として使われていて手に入らず、綿を半分に減らしたせんべい布団になった。病床も増設しなければならないのに、沖縄県の土木部は軍の依頼だけでも手一杯で、力を借りることができなかった。 

 当時の法律では、ハンセン病と分かるとどんなに軽くても隔離収容されてしまうので、入園者の半数以上の人は正常の暮らしが可能だった。

 

 父はまず入園者の心の安定を図ることから始めた。 

 何の罪もないのにハンセン病というだけで、世間からは白い目で見られ、おまけに親兄弟から引き離されて療養所に連れてこられ、絶望し悲嘆にくれている人たちに、まず生きる望みを与えなければならなかった。それには、この隔離された社会を患者たちの意志で自由に動かしていけるよう、自治会を作りかえる必要があった。

 総代の任命、文化部長、教育部長、人事部長、食料部長、次長が選任された。自治会は事務所を構え、一つの小さな独立した社会が作られた。各部長の率いる団体はいろいろな取り決めを自発的に行い、それぞれの任務を自分たちの意志で遂行出来るようにした。

 

「自分たちの生命は、自分たちで守るんだ」

 

入園者の心の中には、次第に自立の気持ちと生きる望みが芽生えていった。

 

 父は、園内の比較的元気な者を募って、病床を増設した。そして、これから悪化するだろう食糧事情を予想して空き地に畠(はたけ)を作らせ、直ぐ食料になる甘藷(かんしょ*サツマイモ)を植え付けさせた。沖縄は亜熱帯地なので、甘藷は茎をさしておくだけで3か月もすると収穫できる。その他、蛋白源として養豚、養鶏などにも力を注いだ。

 

「働かざるもの、食うべからず」

  

 園内では、こんな言葉がささやかれ、体の動くものはみな、自分たちの生命を守るため、出来る限り働き、外部からの移入に頼っていた食料は、ほぼ自給の域にこぎつけられるようになった。

 

 

第4章・ 防空壕

 父が赴任して来たときには、すでに園内には軍が指導して造らせた縦型の掘り抜き壕があった。6月、所長会議で上京の折、父は北九州で爆撃機の物凄い地上掃射を体験していた。それに船待ちのときに5日間も見せられた映画で得た爆風の知識から考えても、この防空壕では無防備に等しいと思っていた。         

 沖縄には4月以来、建物すれすれに飛ぶ偵察機が頻繁に現れていた。目の前に現れる大きな飛行機に、私たち子供は狂喜していたが、父は北九州の空襲は6か月前に偵察されていたので、沖縄の空襲は10月と踏んで焦っていた。

 

 とりあえず掘り抜き壕に掩蓋(えんがい *敵弾を防ぐためのおおい)を造ってみたが、どう考えてもこれだけでは全滅以外にない。何としても横穴壕を造らなければ……幸い園内には、落盤の心配のない、風化すると硬化する土質の小山があった。 

 試しに、その小山に2か所の入り口を作り、コの字型に掘りつなぎ、真ん中から向こう側に抜ける貫通壕を掘り、その両側に互い違いに2メートル四方の部屋を造り、入り口には掩蓋を造ってみた。これならば充分爆風も防げると思ったが、10月まであと2か月しかない。それに入り口が少ないので、1000人からの人を短時間に避難させることはできない。 

 

 父は考えに考えて、並列接続方式を取ることにした。まず等間隔に7か所の横穴を掘る。ある程度掘ったところで、その7か所を中で掘りつなげる。そこまでは7名で作業。そこを作業場にして、次は12名で最初に掘った横穴の中間に広い部屋を6部屋掘る。掘り始めて3日後には大分足場が広くなっているので、最終的には18名で作業ができるようになる。そして爆風で埋まったことを考えて、真ん中の部屋には山の裏側に通じるトンネルを掘る。そして爆風よけには入り口に掩蓋を造る。

 

*壕の見取り図

 入園者自治会青年団が中心となって作業は進められた。地質は堅く、つるはし一振りで7~8センチしか入らず、直ぐなまくらになってしまう。園内には、それらを修理したり、掩蓋を造ったりするため、にわか鍛治屋が設置された。 

  最初に、入り口が14か所ある重病者用の横穴壕が1週間で完成した。これなら入り口が沢山あるので短時間で避難できるし、作業能率もよく短時間で掘ることもできる。

 

「生命が惜しかったら壕を掘れ! 早く掘らんと間に合わんぞ!」

「本当に10月に空襲があるんだろうか」

 

1人焦って、いきり立つ父の態度は、ゆったりとした沖縄の人たちには理解できないことだった。

 

 その頃、日本の敗色は日に日に濃くなり、サイパン島では日本守備隊が全滅していた。しかし沖縄にはそんなニュースは全然入らず、みな、日本の勝利を信じて安心していた。

 

「今度の園長は鬼だね」

 

「早く壕を掘れだの、急いで畠を作れだの、せっかちだったらありゃあしない。俺なんかお陰で怪我をして、これこの通りさ」

 

「俺もさ、傷が敗血症になりかけているから指を切断するって言うから、『指なんていわず肩から切ってくれ』ってタンカ切ってやったら、『バカヤロー』って凄い声で怒鳴られてさ、まったくぅ」

 

「俺なんか一日注射をサボっただけなのに、『俺はキリスト様じゃあないんだから触っただけじゃあ治らない』って、えらく怒られたよ。『そんなに早く裏山に行きたいかぁー』ってさ」

 

「裏山って火葬場のある所だろ? ハハ……

 

 抗生物質のない当時は、敗血症も恐ろしい病気だった。傷が悪化し血液に毒が入ると、命取りになることが多く、唯一の治療法は手指や下肢切断で、園内にはトタンとゴムで作った義手、義足の痛ましい患者の姿があちこちに見られた。

 しかし父は、それらのことを大事の前の小事と目をつぶり、その強引なやり方に反発する人たちを物ともせず、10月空襲を予想して鬼になりきった。

 最初は父のそんなやり方に不満を持っていた人たちも、その尋常でない真剣さにぐんぐん巻き込まれていった。

 

 『10月空襲』を合い言葉に、大声で指揮をとる父のもとで、屈強な青年団を中心に壕掘りは続けられた。体の不自由な人は つるはしを包帯で手に縛り付け、労働力が提供できない人は働く人のために食料を調達したりと、みな一丸となって突貫工事に参加した。そして、とうとう1か月足らずで横穴壕を園内に5か所も完成させてしまった。

 

 次は防空演習。不自由者、重病者、半不自由者と順番に壕に避難させた。最初のうちはトイレや物置に隠れて訓練をさぼる人もいたが、何度か演習を重ねるうちに、わずか30分で全員避難できるようになった。

 

 

*50年後の壕の跡

(園内には当時の苦労をしのんで、まだいくつかの壕が残されている)

第5章・ 空襲

 父の予想通り10月10日早朝、バラバラという機銃音で空襲警報が発令された。園内のものは全員横穴壕に避難。飛行機の爆音が近付いてくる中、私も妹を背負った母について、兄と手をつないで職員壕に走った。

「ミィーも連れてく」

私は可愛がっていた猫を急いで抱きあげ、兄の後を追った。

 椰子の木の上で、爆弾が音をたてて炸裂した。

「お母さんがいない」

兄が泣き出した。母を見失ってしまったのだ。いつも苛めっ子から守ってくれる、あの強いお兄ちゃんが泣いている。

急に心細くなった。

「おかあさーん」

私も大声で泣きながら、兄の袖をしっかりつかみながら走った。

片腕に抱いていた猫が、私の腕を引っ掻いて逃げて行った。

 

 職員壕につくと、入り口で私たちを探している母を見つけた。嬉しさに兄と私は、壕の中に敷いてある布団の上でひっくり返ってふざけあっていると、突然、轟音がとどろいた。壕のすぐ側に爆弾が落ちたのだ。夢中で目と耳をふさぎ布団に突っ伏す。上から獰猛な虎が襲いかかってきた。恐怖のあまり見た幻だった。

 

 空襲第1日目、グラマン150機が、空港、港湾を目標に、那覇市内を攻撃した。ついで第2波、白色のカーチスも加わり急降下爆撃でロケット砲を発射し、応戦に努めた湾内の鑑船は、敵の猛攻撃に力およばず湾外に逃れ、火だるまになって海没。第3波、4波と攻撃は続き、友軍機は飛び立つすきもなくあえなく爆破された。その火は折からの強風に煽られ埠頭に積んであった爆弾やガソリン缶に引火する。目も眩む閃光。機銃弾の豆を炒るような音が響きわたる。首里の軍指令部あたりから天をも焦がす火柱があがり、本島の要所はことごとく打ちのめされたように見えた。

 たった1日で膨大な被害を受けた日本軍は、飛行場建設を中止し、地下陣地構築に作戦を変更していった。

 

 園内も猛烈な機銃掃射と爆撃に遭い、被害は60棟、2000坪にも及んだ。

 治療室、重病舎、礼拝堂、作業所、入園者の暮らす病棟は目茶目茶に爆破されて跡形もなく焼け落ちてしまったが、修理すればなんとか使える建物もあり、わずかだったが山際にあった建物はほとんど焼け残った。園内には、まるで月面のクレーターのように、爆弾の落ちた大きな穴がいくつも開いていた。黄燐(おうりん)弾も使われていたらしく、空襲1時間後に出火した建物もあった。

 井戸の周りに真っ赤な肉片が飛び散っていた。毛の色、角の形から推察するに、動物小屋から逃げ出した山羊に違いなかった。

 穴の側には、キラキラと銀色に光る楕円形の金属片が散らばっていた。兄はそれを拾ってきて壕の中に飾った。それは忌まわしい爆弾の破片であったが、玩具も何もない当時の私たち子供の格好な宝物になった。 

  園を囲む全長1300メートルにおよぶ防潮塀にも無数に打ち込まれた弾痕は、降り注いだ砲弾は何万発にも及んだことを物語っていた。

 

 職員宿舎に行ってみると、土台の枠だけ残して家は見事に灰と化していた。ここは子供部屋、ここは台所、土台を伝ってずっと歩いてみた。小さな骨が隅のほうから見つかった。愛猫ミィーの骨に違いなかった。

「馬鹿なミィー」

 私は引っ掻かれた腕の傷跡をそっと撫でた。

 

 それからというもの、住まいを失った入園者や職員の窮屈な壕生活が始まった。

 連日の壕生活で、地方病のアメーバー赤痢の発生を防ぐため、1日おきに医局員の手で消毒を行い、汚物処理にはとくに心を配り、蠅の発生を極力防止した。包帯交換も隔日行ったが、不便な壕生活に耐えかねて、息をひきとる重症患者が相次いだ。

 壕内は空襲の合間に拡張作業をして、各壕間のトンネルの開通、そして廃材で床まで作り、だんだん居住性が良くなってきた。

 

 炊事は夜のうち、ドラム缶製の大釜で米を炊いて握り飯を作り、1日1人2個を支給した。

 ある日、炊事の煙が目標になってしまい突然、艦砲射撃が始まった。爆風が物凄い。海岸方面からの駆逐艦4隻による攻撃のようだ。100発程の弾を受けたが壕が役立ち、炊事係が1人、肩に軽傷を受けただけですんだ。

 このように毎日の炊事は命懸けだった。

 

 本土からの金銭の仕送りは完全にストップしてしまったが、爆死した40頭ほどの豚と、4頭の牛は保存食として塩漬けにしたし、2万坪の土地に甘藷の植え付けも終わっており、手持ちの米は350俵もあったので当座の食料には不自由しなかった。 

 何か月にもわたり断続的に爆撃は続いた。しかしこの頑丈な防空壕のお陰で、壕から逃げ出して爆死した一人を除いて、園内では生命を落とした人はいなかった。

 後で分かったことだが、5万坪の園の敷地に降り注いだ砲弾の数は、なんと爆弾約600発、ロケット砲400発、艦砲100発、二十二粍(ミリ)機銃弾10万発にものぼっていた。

 

  50年あまり経った今でも、官舎のコンクリート壁には機銃掃射の弾痕が無数に残っている。

 

第6章・ 米軍上陸

 米軍の上陸間近と見た日本軍は、入園者に応戦のため手榴弾の配布を申し出てくれた。入園者や、住民の中には火炎瓶製作を思いつくもの、竹槍応戦を思いつくものまでいたが、

父は

 「非戦闘員がどんなに応戦しても たかがしれている。下手に応戦して死者を出すより、無抵抗主義をとったほうが賢明だ。いくら敵軍でも何もしない病人に危害を加えるようなことはないだろう」

と武器の提供をすべて断った。

 それでもなお いきり立つ入園者には

 「竹槍を作ったバカヤローは、先を切って天秤棒にでもするんだ! どんなことがあっても絶対に無抵抗でいるように!」

といつもの調子で語気荒く怒鳴りつけ、運命の日を待った。 

 

 

 4月21日、前夜の激しい艦砲射撃以来、その日は昼まで珍しく空襲がなかった。午後1時頃、壕の外が にわかに騒がしくなった。

 

「心配するな、出てこい、出てこい」

 

抑揚のついた変な日本語が聞こえてきた。

 

 父は事務長と連れ立って、両手を挙げて壕の外に出た。無抵抗の人を殺すようなことはあるまいと皆には諭してはいたものの、出た途端に銃殺されるかもしれない。喉は緊張のためからからに乾き、挙げた手は鉛のように重かった。外には米兵が銃を構えずらっと並んで立っていた。

 父と事務長が、ここはハンセン病の療養施設であると説明すると、米軍の将校はひどく驚き、丁重に誤爆を陳謝した。そして直ちに空襲を中止させるよう、無電で本部に連絡をとってくれた。

 その後、将校は父と事務長を連れて本部に向かった。この将校、陳謝はしたものの本部に連れて行き殺すつもりかもしれない。昼間の人気のない島内を久し振りに歩きながら、この景色も見納めかと生きた心地もなく、とぼとぼと将校について行った。

 

 本部に着いて暫くすると、ゴムボートで海軍隊の大佐がやってきた。そして重ねて誤爆を謝り、50箱もの携帯用食料を土産に持たせてくれた。父と事務長は、思わぬ展開に天にものぼる気持ちで、その沢山の土産を、道中砂糖きびをかじりながら、意気揚々と園まで担いで帰ってきた。 

 2人とも米軍に連れて行かれて殺されたと思っていた人たちは、しっかりと2本の足を踏み締めて、土産まで担いで帰ってきた姿を見て、我が目を疑った。

 その日、歓びに沸いた園内の人たちは 久し振りに爆撃を気にせず、御馳走に舌つづみを打った。

 

 約束通り、以後園内にだけは一発の爆撃もなく、ここだけ一足先に終戦を迎えた。

 

 世界のハンセン病史上、このように徹底的に爆撃を受け、敵前上陸を受けた療養所はここだけである。整然と並んだ建物と、島の位置が基地と間違われたためだろう。

 ちなみに沖縄戦の終わったのが6月、日本の終戦が8月、愛楽園はその前に戦争が終わり、復興が行われていた。

 

 

 一方、次々と米軍に占領された沖縄本島では、日本軍の死に物狂いの抵抗が続いていた。非戦闘員である住民の防空壕は、日本軍が使うからと追い出されたり、半分占拠されたりして、右往左往した10万人以上の住民は、避難する場所を探しながら砲弾のもとに倒れていった。中学校からは「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」、女学校からは負傷兵を看護するために「ひめゆり隊」が動員され、戦禍にさらされ悲惨な最期を遂げた。

 沖縄での日本軍死者は11万人、住民の死者はさらに上回り、15万人にものぼった。なんと住民の4人に1人は戦没したことになる。

   

第7章・ 敗戦後の困難な日々

 一足先に砲弾の降り止んだ園の焼け跡には、倒壊家屋から集めた柱や瓦、トタンなどを使って、夫婦者や、気の合った者同志が住む2坪ほどのバラックが建ち始めた。小屋は倒れないように立ち木に結びつけられたり、壊れかけたコンクリート塀に片方の屋根を載せたりして、工夫して作られた。蓑虫のようにいろいろな物を張り付けた屋根には、強風に吹き飛ばされないように、石や砂袋が載せられていたが、風の強い日には小屋ごとゆらゆら揺れていた。

 ランプは、ミルク缶の蓋に鉛筆ぐらいの管をはめこみ、ボロ布を芯にして作られた。夜になると にぶいランプの光が、荒涼としたバラックの外にこぼれ、その風景は太古の時代に戻ったようだった。下駄は焼け残りの柱から、鉄兜は鍋に、電線の被覆からは縫い糸が生まれた。

 生活の知恵は驚くほど次々と湧き、戦災ですべてを失った園の人たちは、焼け跡から みるみるうちに立ち直っていった。

 

 山際だったので助かった試験室と動物小屋は、外科室と内科室に改良され、壕生活で弱り切った重症患者の大手術が連日行われた。焼け残った布地は包帯やガーゼに代用され、ドラム缶は蒸気消毒器になった。消毒しては繰り返し使われたボロ布が、バラック建ての診察室にズラーッと干してある様は、さながらスラム街のようであった。

 慰問に来た米軍の医師たちは、ぶらさがったボロ布にいたく驚き、沢山の包帯や医薬品が救援物資として届けられた。

 

 まもなく園は米軍に接収され、とりあえず、テント病棟が設置された。

 

 毎週訪れる米軍の医師たちと、父たち日本の医師は、敵味方・国境を越えて、ハンセン病患者の病型や治療法、血液検査による早期発見法など、お互いの知識を熱心に交換し合った。 

 父たち日本の医者は、及びもつかないような米国の能率的な研究方法や、機械力の格段の進歩の差に感心したり、貴重な文献を贈られたりして感激した。

 一方米軍医師団は映画班を派遣し、父たちの説明のもとに、ハンセン病の皮疹、バイオプシー、伝染の仕方、治療法などの学術映画を撮影した。それは後にアメリカの医科大学に送られ、貴重な教育資料となったという。 

 

 米兵は私たち子供にも優しく、焼け跡で遊んでいると、その太い指でつむじをグルグルと撫でて振り向かせ、チョコレートや菓子をくれた。戦争中に父母から聞かされていた鬼のような米兵とは大違いだった。

 

 しかし米軍からの援助物資や、病院の空き地に作った畠からの作物も、1000人からの患者の口を潤すには程遠く、壕生活で弱り切った重症患者は栄養不良も重なって、つぎつぎと生命の灯を消していった。 

 1000人近い患者に、医師2人と看護婦5人。治療陣の必死の努力も甲斐なく、一夜に3回も死の床に臨むことも珍しくなかった。あれよあれよという間に、戦後1年間で300人近くの人が他界してしまった。

 セファランチン、大風子油(だいふうしゆ)などが当時の治癩薬であったが、もう少し薬があったら、もう少し栄養がついていたら死なせずに済んだのにと、苦痛に顔を歪めて死んでいく患者を看取りながら、父は無念の涙をのんだ。

 

「自分は一体何をしたのだろうか。壕など掘らせて、患者の苦しみを延ばしただけだったのだろうか」

 

『ハンセン病患者を助けたい』……強い信念を持って猛進してきた父は、次第に自分の無力さに打ちのめされていった。

 

 それに追い討ちをかけるように屋我地島に駐屯する日本軍からも、皆の命を守ってやったのだから200人分の兵隊の食料を、病院から毎月提供するように要請があった。狂刃を振るわれたら一大事なので、父は渋々その要求をのんだが、……病人から食料を奪う……まさに弱肉強食の世界そのものであった。

 しかしこの窮状は、事務長が島の有力者と話し合い、園は軍に米を提供するかわりに、島から園に甘藷を提供してもらうことで切り抜けた。 

 

 私たち子供も、食べられるものは何でも食べた。甘藷が主だったが、蒸しても食べたが、生で齧(かじ)っても、口の中にねっとりとした甘さが拡がり、なかなかのものだった。甘藷の葉は、刻んで味噌汁に入れた。少し青臭くとろっとしたところは、今、八百屋で時折みかけるツルムラサキの味に似ている。

  成長期でお腹を空かせている兄にくっついて歩き、いろいろなものを捕まえて焼いて食べた。蛙は鳥の笹身のようだったし、イナゴ、スズメは香ばしく、焼きたてのセミなどは兄と奪い合って食べたものだった。最近知ったことだが、今でもセミを食用にしているところがあるようだ。

 

 病院では、家族の安否を気遣って、抜け出して無断で里帰りする患者が続出した。その道々、空腹に耐えかねて、米軍の軍需品集積所や、廃品処理場から食べ物や、衣類を無断で失敬してくる者が出はじめた。

 最初のうちは、厳しく取り締まっていたが、生きるためには背に腹はかえられず、盗みはそのうち『戦果を挙げる』と称して黙認されるようになってしまった。

 軍用毛布、軍服、軍帽、そして鍋、釜にする鉄兜など集めてくる者や、ダイナマイトを2箱も運んできて、菓子と間違えて食べてしまった者もいた。信管や導火線を運んできて、途中で爆発して死んでしまった運の悪い者もいた。

 

 こんな悲惨な日が続く中で最大の戦果物語は、米軍の食料倉庫をわずか3円43銭で買い取った患者自治会の文化部長の話だ。

 偵察飛行部隊のごみ捨て場で彼は

 「今度の戦争で物をなくしたので、生活用品をあさりにきた」

 とそこにいた米人に話しかけた。

彼は、その米人が面白半分に砂に書いた微分積分などの数学の問題を、次々と解いてみせた。米人はそれに驚いて、ここの隊長だと言って握手を求めてきた。2人はすっかり打ち解けて仲良くなってしまい、帰りには土産に缶詰を持たせてくれた。

 

 次の日海岸で拾った綺麗な貝殻を持ってお礼に行くと、隊が食料倉庫をそのままにして移動するところだった。彼は持っていた有り金3円43銭全部を出してその倉庫を売ってくれと掛け合った。隊長の許しが出ると、朗報は病院に伝えられ、喜びに沸いた病院は、ありったけの船をピストン運転させて、米、メリケン粉、バター、チーズと倉庫の食糧を全部病院に運び込んだ。品物を独り占めしなかった優しい彼のおかげで、体の動けない重症患者までもお腹を満たすことができた。

 

 しかし、このように園からの無断外出者が常時100名にものぼると、島民からの苦情が相次いだ。そして逃走防止のバリケードを張るように強く要請された。

 父は

 「園のものが浮浪徘徊するのは、食料を求めてのことであり、それは農耕地の不足に起因するので、農耕用に隣接地を手に入れたい。また里帰り希望者用にジープを配給願いたい」

と各方面に陳情した。 

 早速、軍からジープと輸送補車が与えられたが、農耕地の件は、苦しい戦時下、甘藷を供出させられていた島民の感情をさかなでしてしまう結果となってしまった。

 園内は壕のおかげで戦争での死者が少なかったが、一歩園を出た島内には戦没者が多く、畠の被害も甚大だったのだ。この件で、父と島民の感情は一気に悪化した。

 

 沖縄は台風銀座と呼ばれるほど台風が多く、テント病棟が吹き飛ばされたこともあって、年が明けると、園には米軍から、1つが30坪近くある丸型兵舎が40数棟供与された。

 大工や左官の臨時職員を雇い、早速園内を整備、爆弾穴の穴埋め作業が開始された。事務本館、薬局、診療室も整備され、重病舎、成年舎、少年舎、職員宿舎も落成した。

 食糧事情もいくらか良くなり、園内は急に生気をとり戻したかのように見えた。

 

 ナオランチンと皮肉られていたセファランチンも、他の薬と組み合わせたり、まぜたりして使うと、類結核型には効き目があった。父はあれやこれやと工夫して、うまい組み合わせを思いつくと、患者から希望者を募っては試してみた。そのせいか、10名近い軽快退園者が出た。僅かの間に沢山の死者を出した父にとって、それはなによりの心の支えになった。

 

 また人手不足で避妊手術もままならず、患者夫婦からも、新しい生命が20数名誕生した。療養所の方針としては歓迎されないものだったが、新しい生命の誕生は、何か心をなごませるものがあった。生まれた赤ん坊は、しばらくは両親の元に置かれたが、感染する前に、与えられたジープで親族に次々と引き取られていった。

 

 本土から届くはずの復旧予算はいつまでたっても届かなかった。現金収入が途絶えてしまうと、職員たちに給料が払えなくなってしまう。金券を発行したり、賃金に代わるものをいろいろ工夫してみたが、努力のかいなく島内出身の職員は、1人減り、2人減ってとうとう20余名の退職者を出してしまった。職員になって残った軽快退園者を入れても、ひどい人手不足になった。 

 患者自治会は、重症者、不自由者、年少者は互助の精神で各自が助け合うこととして、戦前と同じく完全自治制を確立させ、仕事はできるだけ入園者自身が行うこととして、この事態を乗り切った。

 

第8章・逮捕

 その頃、強気な父に対していろいろと流言が飛び交っていた。10月空襲を言い当てたこと、米軍医師らと親しげにハンセン病の学術交流などしていたことで、米軍のスパイに違いないと日本軍に密告するものが出た。

 軍による父の処刑が計画され、父の片腕になって働いてくれている職員も仲間とみなされ一緒に拘留された。厳しい取り調べの結果、冤罪と分かり無罪放免となってホッとしたのも束の間、今度は園接収後、怪我をした日本兵を手当てしたこと、食料を日本軍に横流ししたことなどで、米軍に日本軍のスパイだと密告するものが出た。再び父の側近もろとも逮捕され、頭に銃を突き付けられて激しく尋問されたが、機転の利く職員に助けられ、これも危機一髪で冤罪を証明して、無罪放免となった。

 

 兵士の手当ての件は、日本兵が古宇利島に逃げこんで、島民を指揮して抵抗したため、米軍の戦車が島の大半を焼き払った事件があった。その時の負傷兵を知らずに手当てしたことが原因だったようだ。

 食料の件は、本部の山中に潜伏していた日本兵が、父から食料その他の援助を受けていたと村民に話したことから密告されたようだった。

 幼い私の心に、あの強い父を事もなげに引っ張っていく憲兵の恐怖が焼き付いた。

 『憲兵』それは、お化けよりも何よりも、当時の私にとって怖いものだった。

 

 兄と私は、地元の小学校に通っていた。

 ある日のこと、兄が学校からいつまで経っても帰ってこないので捜しに行くと、山の中で友達に囲まれ、スパイの子といわれ殴り倒され、地面に突っ伏して泣いているところを見付けられた。よく聞くと毎日このようなリンチに遭っていたが、この事を聞いたら父が悲しむだろうと思い、内緒にしていたのだそうだ。

 

 それ以来、私たちの教育は父母から家庭で受けることになった。

 

「シィノタマワク、マナンデシコウシテ、トキニコレヲナラウ」  

 小学校5年生の兄に、論語を教える父の声が毎日聞こえてきた。1年生の私は何のことか分からないまま、それを聞き覚えて、「シィノタマワク……」とお経のように唱えながら、妹と縄跳びやお手玉をして遊んだ。

 

 

根も葉もない密告が続き、何度目かの逮捕のときに、父の心の中でブツッと何かが切れる大きな音がした。

逮捕される度に

『ヤマトンチュー(本土人)は本土に帰れ』

と言われているような気がした。

 

気が短くせっかちな父は、のんびりとした南国気質の沖縄の人と波長が合わないことが多かった。

 

こんなに沖縄の人たちの幸せを願い、身を粉にして孤軍奮闘しているのに、分かってくれている人は、周りにいるわずかな人たちだけだった。

 

父独特のユーモア交じりの毒舌も、理解できない人には、ただの威張りにしか見えなかった。

 

只一人の異教徒ということもあって、他の人たちと微妙に意見が食い違うことが多かった。

  

恨めしげに父を見詰め、息を引き取っていった患者の顔がちらついた。

 

給料不払いで、憎々しげに父に当たり散らして、辞めていった職員の顔が目に浮かんだ。 

 

壕掘りで怪我をし手当てが遅れて、下肢切断になってしまった患者に、「こんな姿になってしまった」と泣かれたことも思い出した。

  

患者のトタンの義足の痛々しい姿を正視するのが辛かった。

 

何もかもうまくいかず、努力すればするほど空回りして、非難の声だけがゴーゴーと父に覆い被さった。

 

孤独だった。惨めだった。

 

 

 

刀折れ矢尽きた父は、ついに園長の辞任を懇請した。

 

*屋我地島の海

第9章・本土帰還

 しばらくして後任が決まり、昭和21年9月末、2年半ぶりに私たち家族は、念願の本土帰還船に乗ることを許された。

 遠ざかる屋我地島を眺めながら、

 「ドン・キホーテか」

と父は淋しそうにつぶやいた。

 

 父は自分のことを、『沖縄のハンセン病撲滅』という風車に、向こう見ずに立ち向かっていった滑稽なドン・キホーテだったと自嘲していた。

 父の向かっていった風車は、戦争という烈風を受けて、きりきりと激しく回っていたのに。

 

 癒されない思いを抱えたまま、父は家族を連れて本土に向かっていた。

 

 夢にまで見た本土は、すっかり焦土と化し、戦争で物を失った人々は、飢えと貧しさで殺気立っていた。力の強い者、目端の利く者は、弱者から物を奪い取って、自分たちの生活を守っていた。焼け残った私たち家族のわずかな荷物も、本土上陸と同時に、詐欺にあっという間に騙し取られてしまった。

 

 大きなトランクとヤカン1つ、これが私たちに残された全財産であった。ひもじいお腹も、このヤカンで沸かしたお湯を飲むと不思議に満腹になった。

 沖縄で生まれた弟は、空腹のあまり泣く力もなく母におぶわれていた。その母も栄養不良で歯は抜け落ち、視力は落ち、片耳も聞こえなくなっていた。それでも私たち家族は、あの激しい沖縄戦をくぐりぬけ、1人も欠けることなく揃って本土に帰還できただけ幸せであった。

 

 東京行きの汽車はひどく混んでいた。乗客はドアだけでは間に合わず、窓からも出入りしていた。ゴトゴトと走る汽車の中で、私たち子供は互いに寄り添い、通路に置いたトランクに腰掛けて夜を明かした。着たきりの服は薄汚れ異臭を放っていた。人の心は貧しさで荒み、一寸したことで罵声が飛び交い、肩が触れ合っただけでも喧嘩になった。 

 

 品川駅に着くと、向こうからおいしそうな蒸し芋を持った女の人が歩いてきた。私たち幼い兄弟の眼は、それに釘付けになった。

「一人息子に食べさせようと思って、朝からずっと捜しているのに、いくら捜しまわっても見つかりません……きっと死んでしまったんでしょう……お子さんが多くて大変ですね。これ、あげましょう」 

 そう言って差し出された蒸し芋の上に、大粒の涙がはらはらと零れた。 

「このお芋、しょっぱいね」

 飢えていた私たちは、その人の気持ちを思いやるゆとりもなく、蒸し芋にむしゃぶりついていた。

  

第10章・50年後の愛楽園

 あれから50年、平和が続き日本は世界に誇る長寿国になった。そして寿命の長さより、生命の質が問題にされるようになってきた。

 その後父は、ハンセン病に効く抗結核薬を大風子油にまぜて治療効果を上げたり、副作用の強い薬の改良に心を砕いたりと、相変わらずハンセン病治療に携わっていた。

 

 父が81歳の生涯を閉じてから10年が経とうとしていた。

  沖縄では「戦争を知らない子にその悲惨さを伝えよう」と、米軍の撮った戦争記録フィルムを買い戻す『1フィート運動』が起こっていた。

 その中に父がバラックの中でハンセン病患者を診察している姿があった。若き日の父は、栄養不良でひとまわり小さく見えたが、大きく見開かれた眼には、たくさんの生命を背負った医師としての責任と緊迫感が漂っていた。それに日本記録映画作家協会の愛川直人氏が着目し、ドキュメンタリーに仕立ててくれた。

 その撮影の時、兄は父の位牌を携え、大事にとってあった父の形見の靴を履いて愛楽園を訪れた。

 

 50年ぶりに訪れた園は、10万坪に広がり、300人の職員を抱える大施設になっていた。

 周りを囲んでいた高い塀はすっかり取り除かれ、コンクリート造りの建物が、南国の明るい陽射しを浴びて整然と建ち並ぶ中、教会あり、公園あり、ゲートボール場あり、マーケットから福祉事務所までそろっていた。通りの要所には、視覚障害者のために人が通るとオルゴールがなり出すポールが立ててあり、間隔を置いて陽射しを遮るビーチパラソルのような木が植えられていた。

 小山には、あの時の壕も一部残っていた。そっと覗くと、頑丈な土質はつるはしの跡を生々しく残し、あのときの苦労を物語っていた。

 後遺症を残すだけで、感染の心配のある患者はもう居ず、みな生き生きと園外に仕事を持って働いていた。

 入園者の宿舎に大きく『餌』と書いた看板がかかっていた。疑似餌を作る名人がいて、今は釣りの名所になっている屋我地島に来る観光客が、ここで疑似餌を買っていくそうだ。

 

 せっかく軽快退園しても世間の偏見のため、就職口もなく、療養所に舞い戻ってきてしまった昔の人の話など、嘘のようであった。

 50年前、父が立ち向かっていった手強い風車は、後任のドン・キホーテたちによって完全に制圧されていた。

 

 明治40年に制定された、病気の根絶を願うあまり患者の人権を無視した癩予防法は、平成6年11月には強制隔離する必要がないと改められ、平成8年4月には全面廃止された。全国の療養所には、まだ後遺症を残した平均年齢70歳を超える6000人近い入所者がいるが、もちろんその人たちには今まで通りの医療、福祉、経済的援助を継続することが約束された上での廃止法である。

 

 沖縄で父を知る人たちは、温かく兄を迎えてくれた。

 大きな声で、本気とも冗談ともとれる毒舌を はきちらしていた父の思い出話に花が咲いた。

 

「そう、先生はあの頃、いつもピリピリしていらっしゃいましたよ。管理職というものは、失敗すると責任をとらされ、うまくいって当たり前の世界ですからね」 

と頭の真っ白な婦長さん……あの優しい語り口は、小さかった私に賛美歌を教えてくれた若い看護婦さんの声……

 

 父の片腕になって物資調達をしてくれていた職員も、高齢のため回らぬ舌であの時の苦労話をしてくれた。

 「あの頃は屋我地島には橋がなく、小舟で本島と行き来していたので、戦争中は夜、米軍の戦艦の間を縫うようにして食料を運んだものでした。見付かりそうになると海に飛び込んで舟を押して進み、遭難しそうになった事もありました」

 

 あのとき父と苦労を共にした人たちの話は、尽きる事なく続いた。

 

「親父の奴、……バカヤロー、余計なことをしやがって……なんて言ってるでしょうね」

と兄は当時の患者の眠る納骨堂に、父の位牌を置いて合掌し、目をしばたたかせた。

 

 父の10年目の命日も間近なある夏の日に、そのテレビは放映された。

あのとき生き残って、後にできた化学療法剤の恩恵をこうむり、今は幸せな療養生活を送っている患者さんたちが何人か画面に出てきた。

 

「命の恩人です」

「あの壕がなかったら、私たちは生きておれなかったでしょう」

「生きていて、今の私たちを見てほしかったですね……

 

 それらの言葉は、

 

「あれで良かったのだろうか? 自分は正しいことをしたんだろうか?」

 

死ぬ直前まで言っていた父への、何よりの はなむけの言葉であった。

 

~終わりに

  父の手記をもとに、当時5歳だった私のぼんやりとした記憶を、母や兄の話、当時の話を書いた文献「愛楽誌」などを参考にさせていただいて纏めてみました。父の後任の園長で、愛楽園を見事に建て直された犀川一夫先生、元総婦長の知念芳子さんには特にいろいろ親切な御助言を賜り、手直しをしていただきました。ありがとうございました。

 

(*執筆 1995年 現在)

 

*参考文献

「愛楽園被爆始末記」 早田 晧

 

「五十年目のドタキャン顛末記」 早田 満

 

「命ひたすら(自治会五十年史)」 愛楽園自治会

 

「愛楽誌」 沖縄愛楽園

 

「門は開かれて」 犀川一夫・みすず書房

 

「今だから話そう 沈黙の時効」(沖縄戦ーあるハンセン病医師の決断) 成星出版

 

「愛は明けゆく」 飯野十造

 

「命の初夜」 北条民雄・角川文庫

 

「小島の春」 小川正子・長崎出版

 

「日本の土に」 澤 正雄・キリスト新聞社

 

「沖縄戦」 大城将保・高文研

 

「戦争と沖縄」 池宮城秀意・岩波新書

 

「沖縄戦とは何だったのか」 大田昌秀

 

「病みすてられた人々」 長島愛生園・論楽社

 

「皮膚科アトラス」 南山堂

 

「臨床皮膚科学」 伊崎正勝・南山堂

 

「日本皮膚病図譜」 金原出版