シーラさんの薬局・編~エピローグ

 

 

 

 (絵・発地 博子)

 商店街のけやき並木の美しい紅葉も、木枯らしが吹き荒れる度に少しずつ色が褪せて1枚1枚と葉を落としていきます。夕方になると どこからともなく集まって来たカケス軍団も、いつの間にか姿を見せなくなりました。街の人たちはジングルベルのメロディーに急かされるように、のぞみ薬局の前を足速に通り過ぎて行きます。

 

「パーン」

「キャーアー」
 大掃除のとき、昨年暮れの売れ残りのクラッカーが1つ出てきました。クリスマスに玩具も少し売っていたのです。
「今日は、田中さんの誕生日なんですって」 

それを聞きつけた男の子は、早速その子の鼻先でクラッカーの紐を引いたのです。
「僕は、ただ誕生日を祝ってあげただけなのに」

色とりどりの紙を被った女の子は、ただただ言葉もなく立ち尽くしています。

 

 

 製薬会社は自社の薬をなんとか売ろうと、あの手この手で迫ります。大光製薬の陳列台はとくにその一念がこもっています。
 飲み屋の暖簾(のれん)の前に、肩を組んだ酔っ払い2人、大光漢方胃腸薬、大光ドリンク剤、徳利を持って はしごを担いだタヌキが丸く並んでいます。スィッチを押すと回転板が回り始めます。それらが暖簾を潜って次々と飲み屋に消えていきます。しばらくすると今度は暖簾の中から次々と現れます。お客さんはこの陳列台にしばし見とれて、肝心の薬を買うのを忘れて帰って行きます。

 

 

 テレビの料理番組で、黒豆を色よく煮るには、紙に包んだ鉄の粉を使うとよいと放送されたので、近所の主婦がドッと鉄の粉を買いに来ました。この店には置いてないので、電話であちこちの問屋に問い合わせて探します。
「黒豆を煮るのに鉄の粉を使うんですか? ナスの色をよくする明礬(ミョウバン)ならありますが……明礬なんか いかがですか?」

電話の向こうでは、黒豆など煮たことがない男性社員がいい加減なことを言っています。
「ナスではなく黒豆の色をよくしたいんですが……」
あちこち電話をしましたが、トンチンカンな返事が返ってくるだけで、鉄の粉はどこの問屋にもありませんでした。
 

 冷蔵庫の掃除には、消毒用エタノールがよいと新聞で報道されると、その日のうちに消毒用エタノールは売り切れ、2、3日すると問屋さんまで品切れになります。にきびにクンメル氏液がよいと書かれれば、クンメル氏液が、ハッカ油が健康に良いと報道されるとハッカ油がドッと売れます。
 テレビ、新聞を良く読んで情報の先取りをすることが売り上げ増しにつながります。忙しい毎日なので、なかなかこれも大変です。

 

 

 仲の良いおばあさん姉妹が、また写真の焼き増しにやって来ました。この店は写真の取次もやっているのです。
「これと、これと、これを1枚づつ焼いて下さい」
「今度はどちらに行かれたんですか」
「伊豆の温泉よ」
「この間は北海道でしたよねぇ」
「体の動けるうちに遊んどかなきゃ、冥途にお金は持っていかれないもの」
 楽しそうに2人はおしゃべりをしながら、連れ立って店を出て行きます。 仲の良い兄弟でも、結婚すると生活がそれぞれ違い、なかなか あのようにうまくいきません。本当に羨ましい限りです。

 

 

 歳末大売り出しが始まると、初めのうちは福引きの抽選券を貰うのを断る人が多いのに、抽選の最後の日になると、半端の1枚を貰おうと血走った人が店に殺到します。ですから最後の日、抽選券を切らすと大変です。
「抽選券がないって?私は券が欲しくて買いにきたのよ。じゃあ、これいらないわ」

と買ったものを全部置いていく人。
 たった300円の抽選補助券1枚のため、お客さんのカナキリ声が店中に響き渡るということも しばしばです。

 

 

 これから忘年会です。近くのスナックを借り切って、皆でおめかしをして出掛けます。ママさんはこの店のお得意様です。おいしそうな料理やお酒が並んでいます。
「先生には弁当の残りを食わせてもらったり、犬のように かわいがってもらったっすから」

と新入社員の渡辺君が、私の好物のブロッコリーを沢山お皿にとり分けてくれます。お腹一杯食べて、飲んで良い気持ちで外に出ました。
 

 帰りのバスに乗ります。が、バスは走らず立ち往生。何事かと見れば、男の人が大声で わめいてバスの前に立ちはだかっています。バスに乗ろうとして鼻先でドアを閉められた人が怒って仕返しをしているのです。運転手も負けずに大きな警笛を鳴らして応戦します。やじうまが集まって来ました。30分ほどやり合った末、やっと動き始めました。この路線のバスは時々こんな意地悪をするので、良くお客さんから仕返しをされます。 年の暮れは人の心が荒んで、時々とんでもないことが起こります。
 

 

 年が明けると、いらいらと忙しそうに歩いていた人たちは、別人のようにおっとりとした えびす顔に変身します。街を歩くと、この薬局で配った絵凧を抱えた子供たちの嬉しそうな顔があちこちに見られます。

 でもこんな子もいます。
「おめでとうございます。ボクにも凧をあげましょうね」

浮世絵風の絵凧をじっと見て
「いらない」

とママの陰に隠れます。
「じゃあ、福笑いにする?」
「こわい!」
「あんたは かわいくないんだよ」
 男の子の頭をポンポンと叩いて、ママは悔しそうに帰っていきます。

 

 

 新年会は千葉地区のチェーン店の人が全部集まって、大きな会館で行われます。社長の挨拶、専務の挨拶、かしこまって食べる御馳走は肩がはるので、後で同志が集まって2次会に繰り出すこともしばしばです。

 

* * *

 

 この店は規模が大きく、お客さんが多いのでよく研修生がやってきます。
 今日新しい子がやってきました。
「ぼ、僕は山田と申します。どうぞよろしく」

緊張のあまり声がうわずっています。
「棚のお掃除をしてください。薬の場所が覚えられますからね」
 その子は言われた通り薬の棚を拭き始めました。端から順繰りに拭いていって、夕方になり、掃除はちょうどレジのところにかかります。忙しい時間なのでそこを避ければいいのに、レジの人とぶつかりあいながら、頑張って掃除をしています。
「次は商品の補充をしてください」

見兼ねて声を掛けると、
「補充って何ですか」

ともじもじしています。
「足りないものを奥から出して並べることですよ。沢山ありますから、台車を使ってください」
 荷物を1度に積めばいいのに、1つずつ積んでは何度も往復しています。敷居のところは台車ごと持ち上げて通ります。休憩室は倉庫の隣です。研修生は通る度に、交替で休憩に入っている人に丁寧にお辞儀をします。何度もお辞儀をされた人は休んだ気がしなくて当惑顔です。
「1度も家の仕事をしたことがない、深窓のお坊ちゃまみたいだね」 

皆ひそひそと噂をします。
「僕この店に来て、初めて補充という言葉を知りました。早く店長みたいになりたいです」
「シーラ先生、いつまでも今のように綺麗でいられるといいですね」

と私にまで、後のたたりがないように釘をさします。

 

 夕方5時からアルバイトにきている高校生の男の子は、この子と正反対の要領の良いウルトラ新人類です。
 もう5時だというのに

「おはようございます」

と春のようなのどかな雰囲気で入ってきて、レジの前に陣取ります。すると自然にレジの前にいる古参の店員は下働きにまわります。頼まなければやらないので自分でやったほうが早いからです。
 時間中に、趣味でやっているドラムのスティックを改良して、電話で工場に売り込んだり、勝手におやつを食べたり、適当にサボっているのに全然憎めません。その子の休みはポッカリ穴が開いたようです。皆、口々に高校を卒業したら、この店で働くようにと口説きます。

 

 

 化粧品担当の女の子がポカ休をしました。
 家に電話をしたら夕べから帰っていないとのことです。するともう1人の女の子が昨日その子に会ったと言います。

 よく聞いてみると、男の人から呼び出しがあって1人で行くのが怖いので付いて来てくれと頼まれたというのです。付いていったら、その子だけ どこかに連れていかれたとのことです。

 警察がきました。両親が飛んできました。何日経っても行方が分かりません。

 1か月後、もう戻らないだろうとその子のロッカーを片付けました。皆、段々その子の噂話をしなくなり、次の新しい子がそのロッカーの主になりました。
 以前にもこの店が勤まらなくて、皆が止めるのも聞かずに、時給が倍貰える水商売に落ちていった女の子がいました。あの子も一体今頃どうしているでしょう。

  

「僕は早く店長になって、彼女に結婚を申し込むんだ」

朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅く帰り、ファイト満々で働いている子がいます。
「彼女が風邪を引いた。何の薬をのませればいいだろう?」
「彼女に湿疹ができた。何を付ければいいだろう?」 
生きる張り合いを持っているので、独身なのに妻帯者のように自信と落ち着きがあります。
「子供ができたらしい、どうしよう」

と相談を受けたときは驚きました。家にも娘が2人いるので、参考までにそれに至るまでの手口を聞き出します。
「初詣のときとか、勤めの帰りにアパートに寄ってもらうとか、僕なんか少ないほうだよ」

と、口をとんがらせます。でも、結婚まで考えているのですから、不謹慎とばかりはいえませんが……。

結局子供はできていなくて、めでたしめでたしとなりましたが……
「娘さんに道徳を教えるより、避妊の方法を教えといたほうが利口だよ」

と言う30代の店長の言葉が重く心にのしかかります。

 

* * *

 

「歯槽膿漏の歯磨きのアセスありますか」
「はい」
「これ、犬にも効きますか? 家の犬、歯槽膿漏なんです」
「犬にねぇ……家の犬は歯ブラシはくわえますけど、磨くまではしたことがないんでわかりません」
 私は家の迷犬(めいけん)カールが、使い古しの歯ブラシをくわえて走り回っていたのを思い出しました。
「これで歯でも磨いてくれれば、テレビでギャラが稼げるのに」

皆の願いも空しく、カールはついに歯磨きを覚えてくれませんでした。
「柔らかいものばかり食べさせると、歯槽膿漏になりやすいといわれていますね」
「そうなんです! 家のワンちゃん、ベビーフードに鳥の笹身を刻んで混ぜてやっているんです」
「やっぱり!」
「効くか効かないかわかりませんけど、とにかく磨いてみます」 
このお客さんは、千円以上もするアセス歯磨を2本も買っていきました。

 

 

 おや?さっき買ったばかりのものを、また買いに来た人がいます。
「どうなさったのですか」
「ねぇ、くやしい、聞いてくださいよ。自転車に荷物を積んで、ちょっと他の店に買い物に行ったらもうないんですよ。お肉も野菜も入っていたんです。きっと女の人ですよ。どんな気持ちで旦那さんや子供に料理して食べさせるんでしょうかねぇ」
 この辺りは、それほど風紀が悪くないのに、隣にパチンコ屋さんがあるせいかよくそんなことが起こります。

 

 化粧品売り場では、よく棚卸しが狂います。はじめはどうしてかわからなかったのですが、売った覚えがないのに、ちょくちょく店の商品がなくなるので、万引きのせいではないかと思うようになりました。

 ある日ついに
「万引きの常習犯を見つけたわ。パンパンに入った紙袋の陰に空の袋を持っているの。2人組で来て、そのうちの1人が買い物をして私たちと話しているすきに、店の中をグルリと回って空の袋にポンポン入れていくのよ。もう顔を覚えたからこの店に入れないわ」 
 化粧品担当の女の子は意気巻いています。プロの万引き常習者につけ込まれたのでは、ひとたまりもありません。店長は死角をなくそうと、棚の向きを変えたりいろいろ工夫します。

 

 

「神経の休まる薬を下さい」

近くで書道を教えている先生が、情けなそうに立っています。
「どうなさったのですか」
「税務署にやられたの。年間所得が38万を少し越えていたので、3年も さかのぼって税金を取られてしまったの。その上、主人の配偶者控除から外されて……歯も痛いのよ。それなのに3時間もいじめられちゃったの」
「それは大変でしたね。私なんか税務署と聞いただけで歯が痛くなりますもの。そんな目にあわされたんでは、当分歯は治りませんね」 

私は神経の休まる漢方薬を出して、これをのめば絶対今夜は安眠できると請け合いました。

 

 

 さあ、店での仕事はこれでおしまい。午後から薬事講習会に行かなければなりません。同じ薬局の他の支店の薬剤師と誘い合わせて出掛けます。久し振りに会うので話がはずみます。薬事講習会とは、年に1度管理薬剤師を集めて最近の薬事情報、薬剤師はどうあるべきかなどと講義をする講習会です。
 県の薬務課長、薬剤師会長の長ったらしい挨拶が始ります。睡魔が襲ってきました。時々目が覚めてはハッと聞き、知らないうちに眠ってしまう長い長い3時間が終わりました。
 受講票が手渡されます。それを店の管理簿にはりつけ、次の保健所の監視の際提示します。もっと工夫して楽しい講習をしてくれればこんなに眠らずにすむものをと毎年思います。

 

* * *

 

「鬼はぁーそとぅ、福はぁーうちぃー」
 鬼にされたアルバイトの男の子は、時々豆を受け止めて食べては逃げ回ります。
 デコレールE(ビタミンE製剤)の陳列台は、大豆から作ったことが すぐ分かるように、薬瓶を大豆で囲んであります。お客さんが
「あらあら、沢山の大豆だこと!」

と驚くと、すかさず
「この薬は大豆から作ったんですよ。大豆の中に血管の老化を防ぐ成分が入っていて、高血圧の人なんか、毎日おのみになると良いんですよ。血管が破れたら大変ですからねぇ」
「ウチのおばあちゃん、血圧が高いのよ。買っていってあげようかしら」

なんて話がとんとん拍子に進むように仕組まれています。
 その大豆を眺めていて、若い子たちは急に豆まきを思い立ったのです。お客さんの途切れた時をねらって、大声で豆を撒きます。
 

 次の日、赤いビニールの床で潰れた大豆を履き集めて、お掃除をするのが大変でした。

 

 

 やあ、発注した薬が入ってきました。レジに1人だけ立っていてもらって、皆総出で棚に並べます。単純作業なので退屈しのぎに話をしながらやります。
「僕、少し肥り過ぎなんだよ。身長180センチで90キロでしょう? あと10キロやせたいな」
「私、胸の辺にお肉がほしいからちょうど良いわ。1キロいくらで分けてくれる?」
「ただであげちゃう!」
「おお、サンキュウ!」
「そこの2人! なにを盛り上がっているの」
「安いお肉の話!」
「ずいぶん、所帯じみた話をしているのねぇ」
「エヘヘ……」
 そんなこんなしているうちに、箱に溢れんばかりにあった薬は、きれいに棚におさまってしまいます。

 

 

 3日とあげず大量に栄養剤だの、胃腸薬だの買いにくる おじいさんがいます。とても1人では のみきれる分量ではありません。茶飲み友だちにあげているのでしょうか。それとも病気の馬でも飼っているのでしょうか。 

 

 

 ビタミンEの大量投与が問題になり新聞に載ると、ビタミンEの売り上げがグッと落ち、小麦胚芽油の類いまで煽りを食って店の陳列棚から姿を消してしまいます。

 DHA(ドコサヘキサエン酸)をのむと頭が良くなると言われると、平成不況の最中でも受験生の親はこぞって買っていきます。そして赤ちゃんの粉ミルクにまで添加されるようになりました。

 とくにこの頃は、健康食品の盛衰が激しく、大体半年くらいのサイクルで入れ替わります。甘茶蔓しかり霊芝しかりです。いま売れている健康食品を、流行健康食品と呼びたくなります。 1億オール中流、情報過多時代の反映でしょうか。

 

 

 中学生ぐらいの男の子が、
「ウチの犬、このごろ急に汚くなったの。それに痩せちゃって」

と洗剤を買いにきました。
「病気ではないの?咳をする? フィラリアかもしれないわね」
「少しでも綺麗になるように洗ってやりたいの」
 ペットの病気や死は、家族のそれと同じくらい心が痛みます。

 

 

「家の主人、ちょっと体の具合が悪いと大騒ぎして、ホントにやんなっちゃう。風邪に良く効く薬ないかしら」
「熱は何度くらいですか」
「36度8分なのに……強いのがいいわ、すぐ効くのが」

その奥さん10分と経たないうちにまた来ました。
「この風邪薬は効かないから嫌なんですって」
「ではこちらのを差し上げましょうね」 

……おや、又あの奥さんです。

「精神安定剤をください。ヒステリー、いいえオステリーが治るのがいいわ」
 旦那さん、だいぶ騒いでいるらしく、奥さんは疲れ切った顔で何度も来店します。かわいそうに……

 

 

 磁気入りのクルミがレジの脇に置いてあります。2つのクルミを手の中でくるくるまわすと、手の中のツボが刺激されて頭の働きが良くなるそうです。 お年寄りの ぼけ防止、受験期のお子さんなんかに勧めます。
 1人のお客さんがじっとクルミをみつめています。
「私、クルミを見ると胸が張り裂けそうになるのです」
「どうなさったのですか」
「息子が死ぬ前に、リハビリに使っていたのです。これは磁石入りですか。今はいいものがあるんですね。19歳で死にました、とうとう……」
 涙がハラハラとこぼれます。
 私も父が死ぬ前にクルミを転がしていたのを思い出し、涙があふれてきます。 

 

 

 目の見えない女の人が、今日も1人で白い杖をまさぐりまがら買い物に来ました。
「バファリンください」
「はい、これですね」

手に持たせてあげます。器用にお財布を開けてお金を払います。
「長崎屋はどちら側ですか?」
「ちょっとお待ちください。今、工事中で危ないのでお連れしますよ」 

お客さんの切れたところで、その女の人の手を引いて長崎屋に連れていってあげます。
「ありがとうございます」
 世の中には善意の人が沢山いるのでしょう。この人は危ない道でもどこでも、いつも無事に歩いて買い物をしています。

 

 気難しいおじいさんが来ました。手が不自由なのでいつもいらいらしています。今日は珍しく文句を言わずに薬を買っていきました。お客さんがズーッと並び、1人でてんてこ舞いです。ふと気がつくと、向こうの方で、あのおじいさんが何かを持って、こちらに差し出しています。
「何をもたもたしてやがる。これが欲しいんだよ、これが!」
 いくら体が不自由なお年寄りでも、人の善意の上にあぐらをかいている人は許せません。

 

 

「ねずみ捕りください。どんなのあります?」
「これは、食べると明るいところに出てきて死ぬ薬です」
「ワーッ気持ちが悪い! 明るいところに出てくるんですか?」
「ええ、視神経をやられるんです。天井裏なんかで死ぬと腐ったりして大変でしょう?」
「ワーッ……どうしよう!」
「それが嫌ならゴキブリホイホイみたいに ねずみをくっつけるのがあります」
「それも嫌ねぇ」
「この間子ねずみが掛かりましたが、かわいい顔をしていたので かわいそうでしたよ」
「困ったわぁー。後のことを考えると恐いけど、穴がだんだん大きくなっていくのよ。家族で住んでいるらしいの」
お客さんはワーワー言いながら『猫いらず』を買って行きました。いくらねずみでも、殺すとなると抵抗があります。

 

ポプリの壁掛け

 (指導・松本恵子 先生)

 

* * *

 

「この間頼んどいた、病人用の紙おむつ入ったかね?」
いつも来る年配の気難しいお客さんです。今日も神経質に青白い頬をぴくぴくさせています。茶色の上着によれよれのズボン、袖口からは汚れた下着がのぞいています。奥さんが寝込んでしまったのでしょう。
「紙おむつですか? 誰が受けたのかしら……」

周りを探しても見つかりません。他の人に聞いてみてもさっぱり要領を得ません。
「まだのようですけど……」
「何? まだ入っていないって? もうこれで3回も来たんだ。2週間にもなるんだぞ!」
「すぐ注文し直します。申し訳ございません」 
 誰かが受けた注文を忘れたのです。
「申し訳ございませんなんて1度くらい謝っても許さんぞ、100ぺんあやまれ! 100ぺん!」 
 とにかく悪いのはこの店の者です。三十六計あやまるに如かず。

 

「すみませんでした」 丁寧にお辞儀をします。
「1ぺん!」
「すみませんでした」 またお辞儀をします。
「2へん!」
 ………………………
 ………………………
「すみませんでした」
「53回!」
「すみませんでした」
「54回!」
 私の周りには、ちょうど来合わせたお客さんが物珍しそうに、輪になって見物しています。 ……ああまずい、娘の友達のお母さんもいます……店の者は息をのんで隅のほうでながめています。お客さんのあまりの剣幕に

(実はこの注文を受け忘れたのは私です)

と名乗り出るものは誰もいません。
 

 繰り返すお辞儀にだんだん腰が痛くなってきました。それにお客さんの勝ち誇ったような顔が憎らしい。私が忘れたわけでもないのに、なぜこんな目に遭わなければならないのでしょう。

『いい加減にしてください!』って怒鳴りかえしてやろうか。
いや、ここで短気を起こしたら54回も謝ったのが ふいになってしまう。
  ……………………………
  ……………………………
「86回!」
「87回!」
 とにかく100回、とにかく100回、念仏のように心の中で呟きながら、機械的にお辞儀をし続ける私の耳に
「はい100ぺーん!」

という声が響いて、周りの人の「ほっ」という安堵のため息が聞こえました。
「うん」 
 そのお客さんは満足そうに頷くと、凱旋将軍のように威張って帰って行きました。 
 店の人たちが駆け寄ってきました。
「よく我慢しましたねぇー」
「僕だったら途中でパンクしちゃうな」
「私だって」
「仕方がないわね、こちらが悪かったんだから。注文を受けたら必ずこのノートに書いておいてね!」
 私は、息をひそめて出てこない犯人に向かって叫びました。
 

 注文した紙おむつはまもなく入荷して、私を100ぺん謝らせたそのお客さんは、その後何事もなかったように、今まで通りこの薬局で買い物をしてくれるようになりました。 あの時、短気を起こさなくてよかった。1人のお客さんを怒らすと口コミで広がって、何人ものお客さんを失ってしまうことになります。それを、あの屈辱の100ぺんで消し止めたのです。
『負けるが勝ち』なんだとつくづく思いました。    

 

* * *

 

 バレンタインデーが近づくと、若い男の子たちはそわそわと落ち着きません。誰かれ構わず
「チョコレートをお忘れなく」

とまるで選挙運動中の議員さんのように愛嬌を振りまきます。私のところにわざわざ
「年齢制限はありませんからね」

なんて言ってきます。あんまり かわいそうなので娘たちの名前でチョコレートを届けてあげたら、まあその喜びようときたら大変なものでした。
「ホワイトデーのお返しには、素敵なパンティーをあげるからね」 

なんて言い出す始末です。
 チョコレートもなかなか凝っていて、男の子憧れのブラジャーなんかを本物そっくりに作ってあるもの、せんねん灸を真似たものなどがあり、包みを開けると思わず吹き出すような仕掛けになっています。チョコレート業界に踊らされているのはわかっているのですが、男女のコミュニケーションが はかれる楽しいお祭りだと思います。

 

 

 お客さんが飛び込んできました。
「家の人が、外国からコレラを背負ってきたらしいのです。消毒薬をください」
 その奥さんが帰ると、応対した店員は急いで洗面所に飛び込んで石鹸で手をゴシゴシ洗います。ガラガラうがいをします。 病気のお客さんが、1日に何十人も来るのに、あまり染らないのは頻繁に手を洗っているせいかもしれません。

 

 

 電話です。旦那さんがカンカンに怒っています。昨日買った鎮痛剤を奥さんにのませたら、具合が悪くなって救急車で運ばれたというのです。 メーカーの苦情係に電話を入れてから、店長はとりあえず見舞いの菓子折りを持って病院にとんでいきました。幸い一命は取り止めましたが、特異体質の人には気をつけて売らないとこんな騒ぎになってしまいます。

 店に落ち度のないときは、メーカーの方で引き受けてくれることになっていますが、暫くの間、鎮痛剤を売るのが恐ろしくて仕方がありませんでした。

 

 

 メーカーの人が大荷物を担いで、自社の製品の説明に来ました。ビデオつきです。自社の製品の説明が済むと、今度は棒グラフを見せて、自社の薬が他社のに比べていかに良く効くか説明してくれます。薬理作用などは、他社の製品と通じるところがあるので、良く聞いておくと応用がききます。薬のサンプルが渡されると、味とか効き具合をみるために、1錠か2錠のんでみます。この間は、胃腸薬と間違えて下剤をのんでしまってひどい目にあいました。

 

 

 歳を取り過ぎていて、あまり良く喋れないおじいさんが買い物にきました。毎日来るおじいさんです。今日はとくにマスクをかけてきたので、何が何だかわかりません。応対した研修生は困り果てて私のところにやってきました。いつも買う物を知っているので、身振りや目の動きでなんとか欲しいものを尋ね当てることができました。なぞなぞどころではありません。
 でもこのおじいさんは、ここに来るのが楽しみなんだそうです。おじいさんの生き甲斐が増えるように皆で優しく親切にしてあげます。

 

 

 薬が値上がりしたので、値上がり前の薬と並べておきました。大抵の人は値上がり前の安い薬をあるだけ買って、得したような顔をして帰っていきます。
 あるお客さんに安い方の薬を勧めたら、
「古い薬を売りつけた」

とカンカンに怒って帰っていきました。
人は同じ事に驚くほど違った反応を示すものです。

 

 

 帰る時間になりました。お昼休みに近くのスーパーで買った晩御飯のおかずを、ドッコラショとかつぎあげてバス停に急ぎます。
「ねぇ、その荷物、夜逃げ?」
「毎日そんなにたくさん買って、怪獣でも飼っているの?」
 いつもの通り、やあやあ皆が冷やかします。
「うんもう、どうしてこんなに食べるんでしょうね」
 眉に八の字を寄せて皆の前を通り過ぎます。

 

* * *

 

*エピローグ

 

 シーラさんのいる「のぞみ薬局」には、1日に300~400人のさまざまな人が訪れます。いろいろな人が種々雑多の価値観を持ち、それぞれに振る舞う様はまるで人生の縮図を垣間見ているようです。
 

 這いまわる乳児をダンボールに入れてパチンコに打ち興じる母親、そして店々を回って時間を潰す放任された幼い子供……一体どんな子に育つのでしょうか。
 一方、商品補充の時、荷物を台車ごと持ち上げて運んだり、モップの使い方もわからず途方に暮れていたあの新入社員は、大事に育てられ過ぎて社会への適応性を失ってしまったのでしょうか。
 奔放になった性、あふれる物々、あふれる情報。
 家族の中にいながら孤独に泣く老人。温かな触れ合いを求めてこの薬局を訪れるお年寄りの何と多いことか。

 

 

 おやおや、早速いつものおばあさんがやって来ました。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「ナムサル条約ってなぁに?」
「ナムサル条約?……ラムサール条約じゃあないですか。水鳥なんかが住む湿地を護ろうという条約ですよ。ほら毎朝テレビで谷津干潟の水鳥を映しているでしょう。あそこが登録されたんですよ」
「まあ、そうでしたか。知らなくて恥をかいてしまいました……」
「ところで、これ大人用の紙おむつですか」
「なんとか自分の時は使わないで、ぽっくり逝きたいですね」
「主人と死に別れて、私も早く死にたいのに寿命ばかりは何ともなりません。早くお迎えがくるといいんですが……」
そんな事をおっしゃらずに、毎日顔を見せにいらしてくださいよ
 おばあさんの話は延々と続きます。 
 

 

 これから高齢化社会に突入します。老人問題は今後の大きな課題になります。
身体ばかりでなく、寂しいときに心の傷も癒しにきてもらえるような温かな薬局目指して、人情の温もりを店一杯に飾りつけ、今日もシーラさんは店頭に立ちます。