シーラさんの薬局・

 

 

 

 (絵・発地 博子)

 広場の花壇に、黄色のマリーゴールドがぽつぽつと咲きはじめました。商店街のけやき並木はのびのびと葉をのばし、乳白色のアーケードに涼やかな影を作ってくれます。夕方になると、沢山のカケス軍団がどこからともなくやってきて、ひとしきり騒いだあと、好みの枝に止まって眠りにつきます。朝になると、のぞみ薬局のシャッターの前は、木の上から落ちてきた小鳥の羽毛がふわふわと羽布団を作りたくなるほど舞っています。

 

* * *

 

 この店は年中無休なので、夏休みを かわりばんこにとります。先発隊が真っ黒になって帰ってきました。
「三宅島に行ってきたの。船の中でクーラーがんがんかけられちゃって、とうとう貸し毛布を借りちゃった。商売上手なの。ところでこのおまんじゅう、名前がいいので買ってきちゃった。『大噴火』っていうの」
 箱を開けると、大噴火をしたようなボコボコの出来そこないの おまんじゅうがズラリと並んでいます。なぁるほどね。

 

「僕、沖縄に行ってきましたよ。海の色がこっちと全然違うんだ」

 

「私、伊豆の海で、魚釣りしてきたの。一番上に餌籠があって、その下に5つも釣り針がついているの。それを海に投げると、鯉のぼりのように魚がズラーッと食いつくの。1時間で100匹も釣っちゃった」
「ヘーッ、凄い! で何を釣ったの」

「さば」 

「なぁんだ」
 後発隊もこれから行くところを胸に描きながら、楽しそうに話に加わります。

 

 

 休憩が終わって店に出ると、中年の奥さんが深刻な顔をして近づいてきました。
「病院に行っても糖尿病がどうしても治らないのですが、なにか良い薬はないものでしょうか」
「うちには糖尿病を治す薬はありませんが、悪化させない薬ならあります。この薬がそうなんですが……」
「高いわねぇ」
「100粒で6000円……1日に1粒で良いので3か月分……1か月2000円……それ程高くないと思いますが……」

「あのぅ、これ猫がのんでも大丈夫ですか?」
「猫?!」
「家の猫、糖尿病なんです」

 

 

 さっきから女子校生が2人、店の中をうろうろ歩き回っています。
「何かお探しですか」 
「あのぅ」

恥ずかしそうに目を伏せて
「……妊娠検査薬ありますか」

まあ大変!

 

 新入社員がマイルーラを指差して
「これ何ですか」

と聞いてきました。
「ああ、これ。筋肉痛に良く効くのよ。煎じてのむの。のみ終わったら、こうして眉毛に少し唾をつけるといいわね。ここに見本があるから、家に持って帰って のんでみたら?」
 皆、まわりを取り囲んでニヤニヤしています。様子がおかしいことに気がついた新入社員は箱をもう一度見直しました。
「フィルム状の避妊薬って書いてある! 僕まだ死にたくない。ひどいよ、ひどいよ」

「アハハ……」
「あ、もう1つ聞きますけど、浣腸に10g、20g、30gって書いてありますけど、10gはどれ位の子供に使うんですか」
「10gは乳幼児、20gは小学生、30gは大人用ね」
「浣腸って何するものなんですか。頭痛に効くんですか」
「あら、浣腸を知らないの。便秘のとき使うのよ」
「どうやって使うんですか」
「これはイチジクの形をしていて、中にグリセリンが入っているの。それを肛門に……」
 そこまで言いかけて、からかわれているのに気がつきました。マイルーラのお返しがきたのです。

 

 

 夕方7時から市の薬剤師会の勉強会です。今日のテーマは妊娠検査薬。講師は若い女の人です。

 

「市販の妊娠検査薬は、尿中の絨毛性性腺刺激ホルモンを、抗原抗体反応を利用して検出するもので、病院でも同じ原理の検査が行われています。 絨毛性性腺刺激ホルモンは、受精卵着床2、3日後から尿中に排泄され、出産後1~2週間で消失します。 生理予定日の1週間後、または性交後3週間目から反応が出ますが、ホルモンの量は多くなったり少なくなったり1日のうちでも変動するので、1度目に陰性でも1週間後にもう1度検査してください。しかしこれは、あくまでも補助的な検査ですので、陽性の場合も、陰性なのにいつまでも生理がない場合も、異常妊娠ということもありますので、病院で診察してもらってください」
「検査に使う尿は いつのがよろしいんですか」
「新鮮尿なら朝、昼、晩いつのでも結構です」
「妊娠でなくても陽性に出ることがありますか」 
「閉経期の人、ある種の腫瘍の人は陽性に出ることがあります」
「検査に影響する薬や食べ物はありますか」
「糖・蛋白・血尿やピルの使用、また酒・食べ物等は検査に影響はありませんが、排卵誘発剤の投与を受けた人は、10日以上あけてから検査してください」
 隣の人と組んで、渡された妊娠検査薬に絨毛性性腺刺激ホルモンをたらして実験します。 机の上にお弁当が並べられましたが、誰も食べる人はいません。 

 

 活発な質疑応答のあと外に出ると、もう外は真っ暗。家に着いたのが9時半。愛犬カールの甘えた声を聞きながら、お土産のお弁当を開けて遅い夕食をいただきます。

 

* * *

 

 次の日はよく晴れ上がって爽やかな朝でした。さあ、開店準備です。荷物を店頭に並べ品物を補充します。ほうきやモップが店の中を忙しく動き回り、電話の音が鳴り響きます。急ぎのお客さんはモップの間を潜り抜けてレジに殺到します。

 

「ハバナの神様をご存知ですか。この神様を信じると心の病が軽くなります」

と女の人が近づいてきました。うんもう、この忙しい時に! まだこれから急いで品切れをチェックして本部に発注しなければなりません。押し売りではないので
「結構です」

と言うわけにもいきません。そうだ!
「店長ぉー、お客様ですよ」

何も知らない店長が向こうから走ってきました。
「ハバナの神様をご存知ですか」

「いいえ、あのー」
 人の善い店長は、長い間宗教の話を聞かされていました。女の人の長い長い話が終わる頃、開店準備がすっかり終わり、疲れ切った皆の非難の目が女の人に注がれていました。開店準備の邪魔をされて、ハバナの神様どころではありません。宗教勧誘も相手の情況を見てしないと逆効果になり兼ねません。

 

 

 小さな女の子がよちよち歩いてきました。後からお母さんが紙おむつを買いにきました。
「ハイ!」

ケロちゃんの玩具ををあげると嬉しそうに にっこり笑います。
「なんて かわいらしいこと。子どもはこれくらいの時が一番いいですね」
「口のきけない時が一番かわいい」

反抗期の大きな子どものいる人が横でちゃちゃをいれます。 家の迷犬(めいけん)カールがあんなにかわいく思えるのは、口答えができないせいなのかもしれません。 

 

 

「昨日凄い大ねずみがとれたよ。お宅で買った殺チュウ剤のお陰だよ」

近くの団子屋の主人が入ってきました。
「コンクリートの床に泥がついているんで、おかしいと思って調べてみたら何と穴が掘ってあったんだよ。凄い歯だねぇー、コンクリートに穴をあけるんだものね。最初見たとき、子猫かと思ったよ。とても ねずみには見えなかったねー。うちの団子を食ってこんなに大きくなったと思ったら腹がたって腹がたって……」

「それは良かったですね」
「おや、お宅クルミまで置いてあるの? なになに? 磁気クルミ……2つのクルミを手の中で、くるくる回すと磁気によりツボを刺激されて頭が良くなる……こんなもので頭が良くなれば何も苦労はしないよ。アハ……」
「そんなこと言わないでおじいちゃん、おばあちゃんに買っていってあげてくださいよ。ボケ防止にいいんですから。ところでこの間お勧めした栄養剤いかがでした?」
「ああ、二日酔いしないって薬? まあまあだったね」
「サンプル入りましたので、お持ちください」

「どうもありがとう」 

団子屋の主人は、陽気な笑い声を残して帰って行きました。

 

 

「奥様、そちらのお綺麗な奥様!」
「え! もしかして私のこと?」
「本当にお若くて、はつらつとしていらっしゃる。お仕事をお持ちの方は違いますねぇー」
「……?」
「実は私は生命保険の者なのですが、もうどちらかに入っていらっしゃいますか」
「ちょうど入ろうと思っていたので良かった。どんなタイプがあるのか説明してください」
「奥様ならこれがよいと思いますが」
「掛け金が月々2万円というのにしようかしら」
「いいえ、薬剤師でいらっしゃるから、その上の2万4千円のがよろしいと思いますよ」
「2万4千円ねぇー。高いわねぇ」
「お願いです! 半年で結構です。入ってくだされば歩合給がもらえるんです。差額の4千円はしばらくの間私が払います。お願いします」
「職業を持つ女性同士、その気持ちがよくわかります……それにしましょうか」
「ありがとうございます」
 一晩良く寝て考えてみました。すっかり相手のペースに乗せられてしまったようです。手遅れにならないうちに急いでキャンセルしました。
 勧誘の人は催眠術のような話術を心得ています。

 

 

 お客さんが忘れ物をしました。開けてみるとバーゲンで買ったとみえる子ども服が沢山入っていました。3週間たっても取りに来ないので交番に持って行きました。
 若いお巡りさんが出て来ました。
「何? 3週間も置いといた? なぜもっと早く持って来なかった」
「取りに来るだろうと待っているうちに3週間たってしまったんです」
「時効になってもこの服は施設に寄付するから、あんたの物にはならないからね」
「家にはそんな小さな子はいないから いりませんよ」
「今度からもっと早くと届けて下さいよ。まったくもう3週間も置いとくなんて」
 

 もう忘れ物は二度と交番に届けまい、そう心に決めて交番を出ました。

 

* * *

 

 今日は社内の健康診断……嫌だなあ……朝から胃の検査のため、食事抜きで近くの病院にいって下剤の入ったバリウムを飲まされて、動くベッドの上でレントゲン撮影……その後が悲惨!

 店に帰って一息ついた頃

「う! ちょっと遠方に行ってくるわね」

と駆け出すと、いたずら好きの若い子が大声で
「シーラ先生が、クソしに行ったよお!」

と店の中をふれまわります。とにかく急いでいるので、その声を後に聞き流してバタン! ジャーッ! なんて体裁の悪い音を響かせなければなりません。

 

 

 お客さんが入ってきました。
「トイレットペーパーください」
「298円です」
「じゃあ、1000円」
「702円のお返しですね」
「あ、8円あります」
「じゃあ、710円のお返しになりますね」
「あら、ごめんなさい。7円しかなかった。じゃあ3円出します。あ、そうそうバファリン買うの忘れてた」
「バファリンは、どのくらいの大きさにいたしましょうか」
「小さいのでいいわ。ところで、さっきのお釣りもらったかしら?」
「?……」
 レジが時々狂うのはこんなお客さんが何人もいらっしゃるからです。

 

 

 まだ梅雨の明けないどんよりした日に、真っ赤に日焼けした女の子が火傷(やけど)の薬を買いに来ました。
「どこでそんなに日に焼けたんですか」
「グァム島です」
 昔の国内旅行と同じ手軽さで、海外に行く人が増えています。

 

 

 店長はパチンコの名人です。隣のパチンコ店が『本日新装開店』したので、もう朝から落ち着きません。
「ねぇ、財テクしない? 1000円出してくれれば2000円にして返すよ」

「本当ね?」
皆からお金を掻き集めてパチンコ店へ……10分ほどで駆け戻って来て
「中間報告……1台打ち止め……」

それからしばらく戻ってきません。深追いして しくじったなあと思ったら案の定……しょんぼり帰ってきました。
「あんまり儲からなかったけど……はい、2000円!」
「あら、いいのよ、無理しなくって」
「1台打ち止めにした時やめときゃよかった。7000円しか儲からなかった」
「それなら いただいとくわ」
「それにしてもよい腕ね。薬屋なんか辞めてパチンコ屋になったら」

 

 

 お昼休みです。近くの商店街の広場を通ると、シンボルの自由の女神の頭の光のところに、同じ大きさの空き缶が5本差し込んであります。誰のいたずらでしょう。皆笑いながら通り過ぎていきます。
 

 

 店に帰ると、問屋さんが荷物を降ろしているところでした。この道路は事故のよく起こるところで、駐車違反の取り締りが厳しく、融通のきかない婦警さんは、積み降ろしている最中まで取り締まったりして嫌われます。でもこの問屋さん、道に停めてきた自動車を そわそわしながら眺めています。
「美人の婦警さんがいるそうですよ。つかまりたいなあ」
 世の中どこにでも楽しみは転がっているものです。

 

* * *

 

「ねぇ、お母さん。頭が良くなるクルミだって! 買ってよ。僕、1学期の成績下がっちゃったもんね」

「バカだねぇ。勉強しないで頭が良くなるはずがないでしょう」
「ねぇ、買ってよ、買ってよ」

「ダメだよ」
お母さんは、子供の手を引いて大急ぎで帰ります。

磁気クルミはあらゆる層にもてはやされます。

 

 

「アリを殺す薬をください」
「スプレー式、液体そしてアリノスコロリというのもありますけど」
「電話線の中に小さな赤アリがいっぱい入っていたんですよ」
「それならスプレー式ですね」
「それに戸棚の外に甘いものを置いておくと、すぐにアリの行列ができてしまうんです」
「アリノスコロリにしますか。これをアリが巣に運び込んで食べると全滅するんです」
「それにしてください」

 

 

 コロッケ屋のおばあさんが、コロッケを売りに来ました。ほくほくの美味しいコロッケなので店の人が、我も我もと買うからです。そう言えば、あのおばあさん、腕の内出血はどうなったのでしょう。ビタミンCをのんで様子を見るように言ったのですが、以前乳がんをやっているので気がかりです。
「もう綺麗に治りましたよ。ありがとうございました」
「それは良かったですね。コロッケ1パック下さい。350円でしたね」
「いえいえ、これは売れ残りですので皆さんで召し上がって下さい」
「あら、買いますのに」
「いいんですよ」
 今日のおやつは美味しいコロッケです。お昼休みに頬張ります。

 

 

「あのう、この間いただいた通経剤、のんでも始まらないんですけど、どうしたらいいんでしょうか」
 一昨日7000円の通経剤を買って行った人が、心配顔で相談に来ました。
「妊娠したのかしら」
「のんだのは1日だけですね。後2、3日のみ続けてみて下さい」
 その人は暗い顔をして帰って行きました。

 

「あの、すみません」

小さな蚊の鳴くような声がします。女の人が囁くように
「実はこの通経剤、のむ前に始まってしまったのです」
「それは良かったですね。お返しくださっても構いませんよ」
「かわりに他の薬を買っていきます。あの栄養剤をください」
 本当に世の中いろいろです。 

 

 

「『こえ患い』に効く薬ありますか」 
なるほどガサガサ声です。
「これは甘草湯(かんぞうとう)といって、うがいしながらのむ薬、こちらはハーブキャンデー、喉に良い薬草が入っています」
「ハーブキャンデーにしてください」

 

 

 首に大きなガーゼを貼った人が入ってきました。
「紙バンソウコウください」
「どうなさったんですか。痛そうですね」
「首つり自殺未遂です」
「えっ!」
「冗談ですよ。自転車でぶつかったんですよ」
「それは大変でしたね」
 その人は、私の驚いた顔が余程おかしかったと見え、クスクス笑いながら帰って行きました。

 

* * *

 

 レジの下にしゃがみこんで、片付けものをしていたら、
「泥棒が来たよー」

と賑やかな声がします。隣のパチンコやさんに勤めるご夫婦です。
「はいはい、何ですか」

ひょっと立ち上がると、
「あら、そんな所にいたの。これちょうだい」
「毎日2000円のドリンク剤、よく続きますね」
「でも、これ飲むと違うのよ」
「そうですね。毎日夜9時までお勤めですものね」

 

 

「ヤクルトいかがですか」

ヤクルトおねえさんが注文取りに入ってきます。
「ヤクルト3本」

「僕は5本」

「私は2本」
ヤクルト好きな若い子たちは、それぞれ買って冷蔵庫に仕舞い込みます。

 

 

 今日はお昼から、化粧品の宣伝で歌手が回って来ることになっています。メーカーの人が、名前の売れる前の歌手を安く雇い、店から店を回って歩くのです。店頭を派手なパネルで飾り、その前に小さな台をしつらえます。その台に乗って着飾った歌手が歌います。とてもデビューしたてとは思えないほど上手なのに、2、3人の見物客が足を止めて振り返るだけです。人の集まらない店頭に歌手と司会者の朗らかな笑いが響き、かえって憐れを誘います。誰もサインを欲しがる人はいないのに沢山の色紙にサインを書いて皆に配ります。店の隅でみすぼらしく すすけているのは、昨年回って来た歌手の色紙です。
「とうとう、これも値が出なかったね」

古い色紙はごみ箱に捨てられ、新しい色紙が飾られました。
「今度の人、売れるといいのにね」

歌手とパネルを積んだトラックを見送りながら、店長がポツンと呟きました。

 

 

「この間買った便秘の薬、効かなかったわよ」
「あら、そうですか」
「そうですか、ではないの! 全然出なかったんだから」
「もう少し錠数を増やして、お水物をなるべくとって、体も適当に動かしてください」
「そおお? じゃあ、やってみるわ」
 お客さんはムスッとした顔をして帰って行きました。

 

 

「これ ください」

「はい250円ですね」
レジをポンポンと打ったら、レジがガジガジ鳴りだし、中から長い紙が出始めました。集計の所を打ってしまったようです。項目が30もあるので集計を打つと、各項目の合計が全部出てしまいます。全部出終わるのに大分時間がかかります。レジが動いている時は、他の項目は打てません。レジが止まるのを待つしかありません。
「あらら、あらら」

私の慌てぶりを見て、お客さんは可笑しそうに笑いをこらえています。
「すみません。変なところを打ってしまいましたので、しばらくお待ちください」
「この頃のレジは複雑になりましたねえ」
 長い長い時間が過ぎてレジがやっと止まりました。冷や汗をいっぱいかいて品物を包みます。

 


ムラサキツユクサ

ヒマワリ   

(ちぎり絵・大白泰子)


* * *

 

 こちらは漢方薬コーナーです。棚には、個々の生薬や漢方薬が、所狭しと並べられています。
「眩暈(めまい)に効く漢方薬ありますか」
「どんな具合に眩暈がするんですか」
「天井がグルグル回るんです。病院に行っても異常なしっていわれるし、どうしたらいいのかわかりません」
「加味逍遙散(かみしょうようさん)なんかいかがですか」
「高いのねえ。3000円! もっと安いのないの?」
「後は精神安定剤ですね。980円と2200円のがありますね」
「これのんだけど、だめだったのよね」
「釣藤散(ちょうとうさん)はおのみになったことありますか」
「これ1度に7錠ものむの? 嫌ねえ」
「……」

「また来るわね」
 このお客さんは、いつも相談だけで何も買ってくれません。でもいつかは買ってくれると思い、つい相談にのってしまいます。

 

 

 この薬局に就職する人は、薬系出身の人が多いのですが、新入社員の中に1人だけ文系を出ている人がいました。夏休みにアルバイトにきていた子です。はじめのうちは、
「僕、ここが気に入りましたので」

なんて言っていたのですが、半年たって大分慣れてきた頃、ふっと本音をもらしました。
「実はコンピューターの会社に内定していたんですが、この平成不況で内定取り消しになってしまったんです。それも3月にですよ。もうどこも受け入れてくれるところがなくて困っていたら、ここで募集があると聞き、どうせなら様子のわかったところと思って就職したんです。まさかここは潰れないでしょうね」

 

「僕も前の会社で、体のよい首切りにあったんですよ」

  店長代理がポツンと言いました。
「事務をやっていたのに、急に鮮魚にまわされて刺身を作れって言われて……家には小さな子がいるのでなんとか頑張ろうとしたんですがね。とにかく会社は円高不況で傾いていて、人を減らしたいんですよ。朝の7時から夜の9時まで冷凍した重たい魚を運ばされるんですよ。体が持たなくてとうとう辞めました。何のことはない首を切られたんですよ。何も悪いことをしていないのにと、ずいぶん恨みましたけどね。会社にしてみれば賃金の安い若い人に入れ替えなければ倒産してしまうので必死だったのでしょう。この間まだ会社に残っている課長クラスの人に会ったんです。辞めさせられた人も地獄だけど、残った人も地獄だそうですよ。倒れかかった会社を立て直すのに大変な目にあっているそうですよ」

 

「薬関係は、不況に強いと言われていますから、いまのところ大丈夫だと思います。真面目にさえやっていれば、すぐどこかの支店の店長にになれますよ」

口ではそう言いながらも、そんな話を聞くと皆どうも落ち着きません。

 

* * *


 今日は鍼灸学の講習会です。今風のお灸を開発した製薬会社が説明会をしてくれるのです。

 

 古ぼけた汚いビルの自動ドアは、ガムテープで止めてあり、今にも壊れそう。人気のないロビーの奥には暗いエレベーターが控えていました。会場は九階です。手垢で汚れたボタンを押すと、背筋に寒いものが走りました。 

 講師は観鏡という古風な名前の人です。仙人みたいな講師が出てきて、

「そこの人、前に出なさい」

なんて指名されて、鍼でも打たれたらどうしよう。逃げるなら今のうち……でも後ろのほうに座れば大丈夫か……

 

 こわごわ会場に入ると、汚い廊下とは似ても似つかない、明るいきれいな部屋でした。講師も古風な名前とは似ても似つかない、若々しいはつらつとした人で一安心。逃げて帰らなくて正解でした。

 

「足三里(あしさんり)のつぼは、膝の下の、押すと足の甲に響きが伝わる場所です。両足にこのシール付きのお灸を貼ると、異常のない方はすぐ熱くなります、そしたら剥がして下さい。熱くならない方は具合が悪い所ですから、何度も熱くなるまで繰り返し貼ると、体の調子が良くなります。胃下垂、不眠症、ノイローゼに効きます。さあ貼ってください」

皆、自分のつぼを押さえて探し、お灸を貼りつけます。
 先生が回ってきました。

「ここですよ」

軽く押しました。

「わ!」

先生の指の力のすごいこと。痛いのなんのって!
「次は膏肓(こうこう)のつぼです。健康骨の付け根のところにあり、座って腕組みをした状態で触れます。深く隠れて見えない心臓の下という意味で、『病、膏肓に入る』というのは、この疾病には治療方法がないということなのです。このつぼが硬くなったり、痛みが激しくなったりしたときは注意しなければなりません。ここはあまり刺激してはいけません」

 

「では、つぼの実際の位置を示しますので、どなたか裸になってください」
 そらきた! 会場がドヨドヨとどよめきました。やっぱり一番後ろに座ることにして良かった! 

すると
「汚い裸で恐縮です。僕がならしてもらいます」
 あらかじめ主催者が裸になる人を頼んでおいたのです。その人は、すっとぼけた顔をしてサッと上着を脱ぎました。身体中にペタペタお灸を貼られ講義は進みます。
「も少しズボンを下げてください」
「もっと汚いところをお見せしてもいいんですか?」

裸の人はすました顔をして冗談を言います。 

 皆の笑いさざめく中、講義は終り、あんなに恐ろしかったガムテープつきの自動ドアも、帰りにはユーモラスに見えてきました。
 

 家に帰り娘にお灸を貼ってみせました。
「風池(ふうち)のつぼは、うなじのところにあるの。毛の生え際の少し上の窪みのところを押してごらん、痛いでしょう。乱視の人は左右のこりが違ってるんですって。ここを温めると風邪や、頭痛、肩こりが治るのよ。 腎兪(じんゆ)のつぼは第2腰椎の両脇、そうそうその辺よ。そこを温めると腰痛、それに生理不順が治るんですって」
 

 里に帰ったとき母にもやってみせました。
「志室(ししつ)のつぼは腎兪のつぼの指2本外側にあって、腰痛の特効つぼなんですって。お母様、腰が痛いんでしょう。そこにホカロンを貼るといいわよ。 肩井(けんせい)のつぼは、肩の真ん中のところにあるの。強く押すと肩全体に響くでしょう。そこを温めると寝違い、五十肩に効くんですって。 肩外兪(けんがいゆ)のつぼは、健康骨の付け根のところ。腕を動かすと くぼむところよ。偏頭痛や首が回らなくなったときに温めるといいんですって。借金したときはここを揉むのね」

 

 2度も受け売りをしたお陰で、なんとかつぼの位置をつかむことができました。
「頭が痛いなあ」

なんとなく風池のつぼのところに手がいきました。つぼをキュッと押したら、少し具合が良くなりました。